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「保革」「左右」を超えた野党再編の対立軸は何か/下

「経済的小日本主義」は新自由主義経済への有力な対抗軸だ

田中信一郎 千葉商科大学基盤教育機構准教授

 ポツダム宣言の受諾、日本国憲法の制定、国連加盟は、日本の国家方針を「大日本主義」から「小日本主義」に転換した。アジア・太平洋戦争は「大日本主義」の総力戦であり、その敗北は「大日本主義」の終えんとなった。

「保革」「左右」を超えた野党再編の対立軸は何か/上

新憲法公布記念祝賀都民大会で、昭和天皇夫妻に万歳三唱する人々=1946年11月3日、皇居前広場

「小日本主義」を国家方針とする日本国憲法と55年体制

 なかでも、憲法は国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の原則を定め、明確に「小日本主義」の国家方針を定めるものであった。石橋湛山が示した「小日本主義」の民主主義・個人の尊重・植民地全廃・軍備撤廃・国際協調のすべてを憲法は備えていた。憲法9条について、石橋湛山は憲法の「最大の特色」との認識を示し「痛快極まりなく感じた」と評している(注18)

 もはや、日本の国家方針は「小日本主義」で決着した一方、資本主義と社会主義という異なる対立点が大きくなった。アメリカを中心とする資本主義陣営と、ソビエト連邦を中心とする社会主義陣営の対立が激しくなり、冷戦といわれる国際状況になった。冷戦は、朝鮮戦争やベトナム戦争のように、局地的な「熱戦」になることもあった。

 日本の政党もこの影響を受け、資本主義の自由民主党、社会主義の日本社会党、日本共産党とイデオロギー別に大きく分かれた。いわゆる55年体制である。

 各政党に「大日本主義」的な考えの政治家と「小日本主義」的な考えの政治家が同居し、前者であっても建前としては「小日本主義」を受け入れていた。例えば、自民党の第二代総裁は「小日本主義」者の石橋湛山であった一方、次の総裁は「大日本主義」者の岸信介であった。社会党にも、浅沼稲次郎のように戦争に協力的だった政治家から、人民戦線事件で検挙され政界追放されていた黒田寿男のような政治家までいた。共産党は、弾圧されていたため重大な戦争協力者はいなかったが、徳田球一らの暴力革命路線から、党の分裂を経て宮本顕治らの平和改革路線(自主独立路線)に転じた。

 やがて、憲法改正を目論んだ強硬的な岸内閣が退陣して、経済を重視する池田勇人内閣で高度成長が実現し、さらに冷戦が緊張緩和(デタント)となり、「小日本主義」は各党に定着した。自民党の大半の政治家は、憲法改正に熱意を抱かなくなり、経済成長の果実を奪い合った。社会党は、憲法改正を目指す一部の政治家が民社党をつくって飛び出し、名実ともに護憲政党となった。共産党は、党内路線の対立を平和改革路線で決着させ、社会党に比べて急進的な護憲政党となった。

 「小日本主義」の各党への定着は、政治と社会の安定をもたらし、さらに経済の発展を加速した。人々はゆたかになり、資本主義と社会主義の対立点すら退いていった。自民党の一党支配が確立し、資本主義体制が覆る可能性は実質的に消滅し、自民党内の派閥抗争が政権交代の代わりを担っていた。社会党も共産党も、体制の変革でなく、体制内での改善に力を注ぐようになっていった。

(注18)鴨武彦編『石橋湛山著作集3』東洋経済新報社、1996年。289-290頁。

時代環境の変化への適応としての政界再編

 1990年前後から、経済環境と国際環境が大きく変化した。経済環境では、1973年のオイルショックによって高度成長が終わり、1990年代前半のバブル経済の崩壊によって低成長時代に突入した。国際環境では、ソ連を中心とする社会主義陣営の自壊によって冷戦が終了した一方、中国など新興工業国の台頭が目覚ましくなった。

 これら前提状況の変化に伴い、55年体制も崩壊を始めた。自民党では利権や路線をめぐって激しい党内対立が起こり、有力な政治家たちが離党して新党を結成した。社会党は、

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