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コロナの時代にこそ政治家は自らの哲学と構想を語れ

「ポスト安倍」を担う自民党の総裁候補に求められること

田中秀征 元経企庁長官 福山大学客員教授

 終戦直後の保守政治家には二つのタイプがあった。戦争が「終わってよかった」という人と、「負けて惜しい」という人だ。

 程度の差あはっても、日本人の誰もがその二つの気持ちがないまぜになって終戦を迎えたであろうが、どちらの気持ちが強かったかによって思想の潮流は二つに分かれる。

終戦を前向きに受け止めた石橋湛山

 「終わってよかった」派には、鳩山一郎、吉田茂、石橋湛山といった、いずれも首相をつとめた政治家たちがいる。

 石橋湛山は1945年8月15日の昼、疎開先の秋田県の横手で、ラジオから流れる終戦の玉音放送を聴いたが、周辺の多くの人が落胆する様子に驚く。そこで、午後、横手の人たちを集めて、「前途洋々たり」という講演をした。

 その夜、書斎にこもった湛山は「更正日本の将来は前途洋々たり」という論文を書き上げ、自らが主宰する雑誌「東洋経済」8月25日号に発表する。その後も戦後日本の政治と経済の構想を9回にわたり発表して、明るい展望をひらいた。

自民党大会で新総裁に選ばれ、あいさつする石橋湛山氏=1956年12月14日 、東京都千代田区大手町の産経ホール

新しい目標の設定に必死になった宮沢喜一氏

 同じように、終戦を前向きに受け止めたのは、宮沢喜一元首相だ。

自民党の宮沢喜一氏。この半年後に首相になった=1991年4月3日、東京・虎ノ門
 若き大蔵官僚であった彼は、終戦の報に接して感動し、大きな希望が湧いてきたという。、そして、これからは、「平和」、「自由」、「繁栄」の三つの目標を追求する新しい国づくりが始まると確信し、日本再建の過程で、少しでも役割を果たしたいと感じたという。

 宮沢氏は、戦後最大の政治の転換点は60年安保紛争だが、経済面における最重要の転換点は、プラザ合意(1985年)だと明言していた。この合意による急激な円高が、結果的に日本に巨大なバブル景気をもたらし、経済と国民生活をほんろうすることになった。

 「平和、自由、繁栄はほどほどに実現したから、四つ目は“公正”かな」と、宮沢氏が初めて私に言ったのは、プラザ合意の後であったと思う。このまま放置して、成り行きに任せていけば、公正でない社会、格差が拡大する社会になるのではないかと、宮沢氏は危惧していたのだろう。

 首相になる前、「資産倍増計画」や「生活大国構想」を世に問い、新しい目標の設定に必死になった背景には、そうした問題意識があったに違いない。しかし、当時の日本は、保守政治のおごりが構造汚職を生み、政治に対する国民の信頼は地に墜ちており、宮沢構想は容易には実現に至らなかった。

愕然とした「骨太の方針」の原案

 かねてから私は、政治には政治家個人から滲(にじ)み出る哲学、思想、政策、構想が不可欠だと信じている。それがない政治は、堤防のない河川のように氾濫が常態化し、収拾がつかない。別の言い方をすれば、政治には現実と対照できる目標、構想が常に必要なのである。

 こんなことをあえて書くのは、政府が出した今回の「骨太の方針」(経済財政運営と改革の基本方針)の原案を見て、愕然(がくぜん)としたからだ。

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