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レバノン大爆発。マクロン仏大統領の支援要請は国際的連帯か内政干渉か

いち早くベイルート入り。国連とオンラインの国際支援会議も開催。その狙いは。

山口 昌子 在仏ジャーナリスト

 レバノンの首都ベイルートでの大爆発直後、マクロン仏大統領が現地に駆けつけて国際支援を要請したことに関し、「内政干渉」か「国際的連帯」かの論議が盛んだ。フランス政府と国連の共催で開かれたオンラインの国際支援会議では約310億円の拠出金が集まったが、レバノンがフランスの委任統治下(1943年独立)だったことから、フランスの内外で「レバノンはフランス領ではない」「フランスの自己満足」「余計なおせっかい」といった反発も聞かれる。

大爆発後にベイルートを訪問した初の元首に

 マクロン大統領は8月4日の大爆発直後の5日夕、ルドリアン外相を伴ってベイルートに到着。6日はアウン大統領とのトップ会談のほか、現場の港湾と付近の被災地を長時間訪問し、同夜に開催した記者会見で国際支援会議開催を訴えた。大爆発後の外国の国家元首のレバノン訪問は初めてだった。

 2750トンの硝酸アンモニウムの爆発で瓦礫(がれき)と化した現場のベイルート郊外の港や付近一帯の被災地ではまだ煙が立ちのぼり、救援隊が作業をするなか、市民や記者団に囲まれたマクロンは途中からワイシャツ姿になり、最後はマスクも外して市民と対話。泣きながら惨状を訴える女性を抱きしめて、慰めもした。

 訪問の理由をたずねる記者団には、「なぜ来たのか、レバノンだからだ。フランスだからだ」と述べ、フランスとレバノンの歴史的関係の深さを強調した。

LayalJebran/shutterstock.com

独立までフランスの影響下にあったレバノン

 レバノンは第1次世界大戦後の1920年、シリアの一部としてフランスの委任統治下になり、1943年11月に独立するまでの約20年間、フランスの植民地と同様、政治・経済・文化など、あらゆる面で強い影響下に置かれた。

 マクロンは「レバノン国民への支持、友情、そして友愛的連帯の証言者として、当然の行動だ」と訪問の意義を強調。死者が少なくとも137人、負傷者約6000人、崩壊家屋約30万(8月11日現在)の未曽有の大惨事に見舞われたレバノンに対し、人道緊急援助の必要性を強調した。

 「内政干渉」批判も視野に入れて、「(レバノンの)政治指導層に教訓をたれに来たわけではない。来るべき3週間が、レバノンの将来にとって決定的だからだ」と述べ、緊急訪問を正当化。一方で、レバノンの指導者との「率直かつ要求の多い真の対話」の機会が目的であることも言明し、危険物放置を含めたレバノン政府の無策、無能ぶりを暗に批判した。

「救世主」扱いにまんざらでもないマクロン

 大爆発の原因となった硝酸アンモニウムはロシアから運輸されたもので、現場の倉庫に6年前から放置されていた。2750トンの爆発危険物を海上運輸したロシア人船長は、ベイルートのロシア領事館に「放置状態を何とかしてくれ」と懇願するたびに無視され、「プーチンが特殊部隊を派遣して我々を解放してくれることを望んでいるのか」と、皮肉を込めた抗議をしていた。

 船長は爆発後、レバノンの地元紙に対し、「プーチンには毎月、手紙を書いて『我々の運命は囚人より悪い。なぜなら、いつ釈放されるか知らないから』と訴えた」と告白した。この手紙に対し、モスクワからは毎回、「貴殿の要請は外務省に伝えた」との切り口上の返事しかこなかったという。ロシアにも責任があったわけだが、レバノン政府が何らの手段も講じなかった罪は重い。

 マクロンを取り囲んだ市民からは、「レバノンはあんたの息子だ!」「フランスに要請したいのは援助ではない、政治的行動だ!」「ここの政治家どもを放逐するのを支援してくれ!」などの叫び声が上がり、マクロンが慌てて、「それは私の仕事ではない」と否定するシーンも見られた。

 「救世主」扱いされるとは思っていなかっであろうマクロンだが、

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