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台湾元総統・李登輝氏が「我是不是我的我」に込めた思い

台湾生まれの指導者が目指した政治の姿

村上太輝夫 朝日新聞オピニオン編集部 解説面編集長

視察先、3人の顔役が待っていた

李登輝氏(2016年撮影)。1923年生まれ。台湾大学教員を経て政界に入り、88~2000年総統を務める。20年7月30日、97歳で死去
 亡くなった李登輝・元台湾総統について、時折思い出す光景がある。

 私が台北に駐在していた2012年9月、台中大地震からの復興状況を李氏が視察するのに同行したときのことだ。

 1999年9月の台中大地震は李総統在任中、最大級の自然災害だった。日本の救援隊もいち早く現地入りして台湾社会に強い印象を残し、後の東日本大震災で台湾から多くの義援金が寄せられた一因となる。日本のメディアなら関心を持つだろうと李登輝事務所が気を利かせて台北駐在の各社に声をかけてくれたのだった。

 山あいの視察先の近くにあったレストランで豪華な昼食を用意して待つ政治家が3人いた。

 これに、ちょっと驚かされた。

 宴を設けたのは顔清標氏。1960年生まれ。台中選出の立法委員(国会議員に相当)を2期務めた。大甲鎮瀾宮という馬祖信仰で有名な廟の仕切り役だ。息子も立法委員を務めた。

 それから張栄味氏。57年生まれ、元雲林県長。国民党。娘が立法委員を務めた。

 3人目は陳明文氏。54年生まれの立法委員。嘉義県で長く県長を務めた実力者だ。もともと国民党で、陳水扁政権時代に民進党へ鞍替えした。

 いずれも台湾社会では有名人だ。ストレートに表現すると支障があるが、どちらかといえばあまりクリーンな印象を持たれていない。要するに台湾中南部を代表する大物の地域ボスが顔を揃えて李氏と円卓を囲んだのだった。私は、あまり見ない方がいいものを見てしまったような気分に陥った。

 李氏との関係は3人それぞれ事情が異なるだろう。そもそも、李氏よりずっと若い世代だ。ただ、李登輝総統の時代を経たからこそ俺たちも偉くなれる世の中になった――。そんな共通の思いはあっただろうと、勝手ながら想像した。

大陸から来た国民党での出世

1999年の台中大地震からの復興状況を視察するため台湾中部を訪れ、地元の人々と交流する李登輝氏(中央)=2012年9月11日 

台中大地震で全壊した中学校を保存、活用した教育施設を見学する李登輝氏(手前左)=2012年9月12日 
台中大地震で被害があったダムを視察する李登輝氏(左)=2012年9月12日 

 1988年から2000年までの李政権は、国民党の政権だ。正式名称は中国国民党。約100年前に孫文が中国でつくった政党であり、中国(中華民国)の政権党だった。

 台湾には、1945年に日本統治が終わった際、新たな支配者として入ってきた。大陸での内戦で共産党に敗れた49年以降は、蔣介石のもとで台湾と周辺の島々だけを実効統治し、一党独裁体制を敷いた。彼ら国民党の支配層は外省人(=大陸出身者)であり、本省人(=台湾出身者)に政治弾圧を加える一方、優秀な人材は党への吸収を図った。

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