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辞めた首相は何を望むのか 元老を目ざした?吉田茂~河井弥八日記から 

天皇の「側近相談役」設置を考えた吉田。望んだのは戦前の元老や重臣のような存在?

小宮京 青山学院大学文学部教授

 2020年8月、安倍晋三首相が突如として退陣を表明した。その後、自民党総裁選で菅義偉官房長官が勝利し、後継首相に就任したのは記憶に新しい。

 新型コロナウイルスの「第3波」が猛威をふるい、菅首相の判断が世論から注目されるなか、安倍前首相をめぐって「桜を見る会」をめぐる問題が再浮上。自ら国会で説明するなど、首相を辞めてもなお、安倍氏の動向に注目が集まっている。

 歴代首相を見ても、森喜朗元首相や鳩山由紀夫元首相のように、今も何かにつけてその動向が報じられる例もあれば、村山富市元首相のようにあまり報じられない例もある。退陣後の元首相のありようもさまざまである。安倍前首相の場合はどうなるだろう。

参院の議院運営委員会の冒頭、謝罪の言葉を述べる安倍晋三前首相=2020年12月25日午後3時15分、国会内

首相引退後の吉田茂は

 戦前の日本であれば、総理大臣経験者が元老や重臣と呼ばれる存在として遇されることがあった。だが、戦後の日本国憲法の下では、そうした存在は規定されず、首相を辞めた政治家がどのように振る舞うべきなのか、今なお判然としない。

 「一兵卒」として活動するのか、あるいは政界から引いて、時にご意見番のように登場するのか。

 その意味で注目すべきは吉田茂である。

 吉田は鳩山一郎の追放に伴い突如として政権を担い、一度は下野した。だが、首相として再登板すると、今度は長期政権を築くことに成功し、講和独立を実現した。第5次でその政権は終焉(しゅうえん)を迎えたものの、「吉田学校」の優等生である池田勇人や佐藤栄作らが政権に就いたことで、その後も言動に注目が集まった。そして佐藤政権下の1967(昭和42)年に亡くなった。

河井弥八日記に登場する吉田茂

 筆者は「河井日記研究会」の一員として関わっている。戦前から戦後にかけて活躍し、侍従次長や参議院議長を歴任した官僚・政治家である河井弥八だが、その戦後の日記がついに完結した。『河井弥八日記 戦後篇 第5巻』(信山社、2020年)である。

『河井弥八日記 戦後篇 第5巻』(信山社、2020年)
 吉田政権期に参議院議長を務めた河井は、戦後日本のフリーメイソンに最初期から関わった人物でもある。河井とフリーメイソンの関わりについては別稿をご覧いただきたい(論座「日本のフリーメイソンのこと知ってますか?(上)」「同(下)」

 吉田の長期政権の間、与党は参議院で過半数を占めることは出来なかった。戦後初期からの参議院の第一会派は緑風会だったからだ。実際、初代議長の松平恒雄(秩父宮妃勢津子の父。秩父宮夫妻の結婚までの経緯は論座「会津の雪冤と山川健次郎」を参照)、第二代議長の佐藤尚武、第三代議長の河井弥八まで、みな緑風会に所属していた。

 結果として吉田政権は、衆議院では多数派を形成するものの、参議院では緑風会を無視できない状況に置かれていた。参議院の重要性は今日でもしばしば指摘されるが(論座「自民党総裁選と参議院との関係とは?」)、戦後政界における参議院緑風会の存在感は大きく、吉田首相も重視した。

 それゆえ、緑風会の有力議員だった河井弥八の日記には、交渉相手として吉田首相が頻繁に登場し、戦後政治史上、興味深い記述も散見される。

 1954年12月に吉田政権が退陣した後、河井は1956年4月に議長を辞任した。そして6月の参議院議員選挙で落選し、政界を引退した。こうして二人の政治上の交流は途絶えたかに思われた。が、そうではなかった。政界引退後の河井が日常を記す中で、吉田茂に関する大変興味深い記述が出現するのだ。「河井日記」最終巻の第5巻から抜粋したい。

1959(昭和34)年2月11日
「松村謙三氏、二時半来訪す。側近相談役設置に付、吉田元首相の意を通ぜらる。(中略)元長官田島道治氏に相談することを約す。」

2月13日
「田島道治氏を往訪す。吉田氏の伝言を告げて、氏の意見を問ふ。結局現行憲法の下にては実現至難なりとの意見なり」

2月14日
「松村謙三氏を二時、議員会館に往訪す。(中略)詳細に報告し、今後の措置に付、考慮を求む。」

 吉田茂が松村謙三を使者に立てて、河井に、天皇の「側近相談役設置」を相談するという衝撃的な記述である。河井は初代宮内庁長官の田島道治を訪ね、その意見を問うたところ「現行憲法の下にては実現至難」との回答だった。それを2月14日に松村に伝えて、この一件に関する記述は終わる。もはや河井が手に負える案件ではないため、吉田元首相らに戻したという経緯である。

1962年 神奈川県大磯町の自邸応接間での吉田茂元首相=1962年4月24日、吉岡専造撮影

皇室の将来を案じた吉田茂

 それにしても、吉田茂が持ち掛けた相談はあまりに唐突であり、河井ならずとも驚く。

 なぜ、吉田茂は天皇の「側近相談役設置」などを考えたのか? 別の資料を用いながら考察してみたい。

 吉田が河井に相談を持ち掛けた1959年2月の前後にはある大きな出来事があった。皇太子ご成婚である。1月には納采の儀(結納にあたる)、4月には結婚の儀が行われた。さらに翌1960(昭和35)年2月には皇孫たる浩宮徳仁親王が誕生した。10月には、皇太子夫妻がアメリカを外遊している。

 こうした状況下で、吉田は小泉信三に手紙を送っている。小泉は皇太子の教育係を務めた人物である。以下、『吉田茂書翰』(中央公論新社、1994年)より引用する。引用に際して、読点を補ったり、表記を読みやすく書き改めたりした。

 1959年11月17日付小泉信三宛書簡では、皇太子外遊について、「御青年時代より内外政務に付、委細申上置内外情勢に付、御興味を持たれ候事肝要」と書いた。

 1960年3月28日付の書翰では「昨今の国情」を嘆きつつ、「皇族を初め身を挺して民心指導に当る決心を要すと存候」と書く。途中「国家之前途に思を致すを忘るるかの風に見」えるとも記し、岸信介内閣による安保改定をめぐる国内の状況を案じているように読み取れる。

 1960年8月16日付の書簡では、「殿下御渡米之場合、現地教育充分御注意」されたいと書き、「昨今之皇族方の御態度民主ゝ義に流れずや、小生共頑固党には感服出来ぬ事ふしぶし」少なからず云々、とした。吉田は当時の皇太子含め、皇族のあり方に不満を持っていたように読み取れる。

 こうした筆致を踏まえれば、皇室の慶事が続くなか、吉田は皇室の将来を案じ、皇室の輔弼体制の再構築を考えた。そのために「側近相談役」の設置という対応を考えた、とまとめていいのではないか。

宮内庁に不満を伝えたかった?

 1959年から1960年にかけての吉田の言動を確認した。ここからは、飛躍まじりになるが、あえての推測を進めたい。

 そもそも、吉田は皇室の将来のためだけに「側近相談役」設置を考えたのか。

 河井に相談し意見を聞いたのは事実だが、宮内庁に不満を伝えたかっただけのようにも思える。

 河井は戦前に宮中で仕えた経験はあるが、戦後は参議院議員が主だった。もちろん現役の宮内庁関係者との接点もあり、田島元長官というルートに相談もしている。それは吉田も予想しえたはずである。くわえて、小泉信三含め、宮中に通ずる様々なルートに不満を述べて、宮内庁側に自らの不満を伝えたかった、と解釈することも可能ではないか。

 河井に伝言を持参したのが、松村謙三という、吉田政権下において野党改進党の幹部として政治的に対立することが多かった政治家だったことも、想像を逞(たくま)しくさせる。どう贔屓(ひいき)目に見ても松村は吉田系ではない。

 なぜ、吉田直系の議員に仲介を依頼しなかったのか。深読みすれば、松村から吉田の意向が漏れることを期待していたのかもしれない。

威光に陰り、転身も考慮に?

 1955年に自民党が結党された当初、吉田茂が入党しなかったことは有名だ(論座「安倍首相が北方領土に前向きな歴史的な必然」)。すなわち、「反吉田」としてスタートした自民党に、吉田の居場所はなかったのである。

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