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文章は“書く”ものではなく出会いの中で“書かせてもらう”もの

ジャーナリスト中村一成さんが経験したルーツにまつわる葛藤と取材でのこだわり

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

 雨が降っては止み、折り畳み傘をなかなかしまえずにいる私をからかっているかのようにくるくると天気が変わる昼下がり。京都駅の南側、東九条の細道を抜け、鴨川のせせらぎを聴きながら土手を歩いた。向かっていたのは川沿いからほど近い、私の父の生家跡だった。

 亡くなるまで、在日コリアンとしての出自を隠し続けた父が生まれた場所が分かったのは、昨年の春先のことだった。全く土地勘のないこの地を、最初に共に巡ってくれたのは、ジャーナリストの中村一成(なかむら・いるそん)さんだった。「自分がなぜここにいるのか、その来歴を知るのは、両足で立つために必要だから」と、その後の取材でも力になってくれている。

 一成さんが手がけてきた数々の著書を読み、中でも印象深かったのは、「朝鮮籍」にこだわり生きてきた6人の歩みをたどった『ルポ 思想としての朝鮮籍』(岩波書店)だった。この本の中で時折、一成さん自身のルーツやアイデンティティの揺らぎについて触れる言葉があり、気になっていた。「在日コリアン」もますます多様化し、ひとくくりに語ることはできない。そうした前提がありながらも、私よりも少し上の世代の、ルーツにまつわる葛藤を知りたくなった。

中村一成さん。鶴橋駅の高架下で(安田菜津紀撮影)

「私は日本人や」と泣きながら言った母

 「最初に覚えているのは、業務用の灰皿が割れて、そこから血がしたたっている光景です」

 記憶をたぐりよせながら、一成さんは自身の幼少期を語ってくれた。ぎょっとするようなシーンだが、父親は自制がきかなくなったとき、分厚い灰皿や建材など、常人では破壊できないはずのものを叩き割っては、周囲を威嚇していたのだという。したたっていたのは、そんな父自身の血だった。

 一成さんは大阪府寝屋川市に生まれ、小学校2年生頃まで、キッチンと6畳間ふたつの「文化住宅」と呼ばれる古い集合住宅で過ごした。母方の祖父はプレハブを作る会社を営み、そこに職人として転がり込んできたのが、一成さんの父だった。二人目の妹が生まれると、一家は枚方市に越し、その後、父は土建業で会社を興した。

 一成さんは子どもの頃から、母が「日本人」ではないことに気が付いていた。物心ついた時には、父は酒に酔い、事あるごとに家の中で激しく暴れていた。夜中に母を踏みつけ、唾を吐き、口をついて出るのは、「お前は血が汚い」「お前は日本人じゃないから子どもは俺のもんや」という民族差別の言葉だった。

 「父親と母親は駆け落ちしたのですが、その時に出自を告白されたことを“だまされた”ととらえていたようです」。ののしられながらも、「私は日本人や」と泣きながら母が父の足にすがっていた姿は、今でも思い返すと苦痛が伴うという。

ベッドの下にサバイバルナイフを

 父は母に暴言を吐く一方、子どもたちには直接的な暴力を振るった。家で食事中に、剥き出しの短刀を妹に投げたこともある。覚えているだけでも、一成さんは鼻の骨を2回折られている。「お前も母親と同じ目をしている」と殴られたこともあった。

 父親を刺激しないよう、子どもたちは常に緊張していた。気に食わないことがあれば、父のいら立ちが一週間も続く。そんな時はなおさら、家に帰る足取りが重くなった。

 「現場の事故で死んでくれないかとさえ考えたことがあります。その一方で、怒りの“スイッチ”が入らない限りは、子どもを溺愛するんです。特に子どもたちにひもじい思い、経済的に惨めな思いをさせないことへの執念は凄まじいものがありました。彼にとってはそれが最も大事な“親の証”だったのでしょう。不思議な人だ、と思いながら育ちました」

 それでも、壁一枚隔てた部屋で、母親が暴言で踏みにじられるたびに、「いつか殺してやろう」という思いが募っていった。「中学生の頃、ベッドの下にサバイバルナイフをずっと入れていたんです。当時、父親が母親に何かした時には殺すしかないと思っていました」

初めて知った”もう一人の祖父”の存在

 母は何度父親に蹂躙されても、子どもたちに自身の出自を明かすことはなかった。彼女が高校時代に名乗っていた「新井」は、在日コリアンに多い通名のひとつだ。母の卒業アルバムの顔写真の下、名前があったはずのところには、先のとがった何かで削り取った跡が残されていた。子どもたちが見て何かを察しないよう、神経をとがらせていた。

 母が初めて自分のルーツを語ったのは、一成さんが高校生になってからだった。当時所属していた柔道部で足の骨を折る怪我をし、母に車で送り迎えをしてもらっていた。学校から帰る車の中で、母がふと、こう告げてきた。「あんたにはもう一人、おじいちゃんがおってな、今日亡くなってん。“あっちの人”やねん…」

 母が12歳の時に、母の父母、一成さんにとっての祖父母が離婚し、その後、祖母は日本人と再婚したのだった。それが、一成さんが「祖父」と認識していた、プレハブ建設の会社を営む人だった。この車中での会話以前、一成さんは血のつながっている“もう一人の祖父”の存在さえ知らなかった。

 「その祖父は、“飲む・打つ・買う”に加えて暴力もひどいヤクザで、気にくわないことがあれば、祖母の髪の毛をつかみ引きずりまわしたそうです。だから母親はものすごく憎んだ。その反面、子煩悩な顔もあったようで、割り切れない、複雑な思いを抱いていたんでしょう。死に目に会えなかったのも辛かったのかもしれません。だからこそ私に言わずにはいられなかったのでしょう」

 ぽつりぽつりと語る母の言葉の中で、「あっちの人」という言葉の響きが、心に引っかかった。

在日コリアンのコミュニティーと縁を断って

 祖父のみならず、祖母も在日コリアンだ、と母が口を滑らせるように語ったのは、それから何年も後のことだった。祖母も母も、一成さんが小学校高学年の時に日本国籍となり、在日コリアンのコミュニティーとの縁の一切を断っていたのだ。

 振り返れば、祖母の作るキムチは、ニンニクを入れず、生姜とニラがたくさん入っていた。水っぽく、とても美味しいとは言えなかった。「今思うと、“ニンニク臭い”と言われるのが嫌だったのかもしれません」。

 一成さんが在日コリアンの集住地区へと出向いたと話すと、祖母は「なんでそんなところ行くねん」と嫌がった。一緒に焼肉に行くときは必ず、そうした集住地区ではない場所を選んだ。祖母は入り口から死角になる席で帽子を深くかぶり、サングラスをかけて一成さんを待っていたという。どこで在日コリアンのコミュニティーとつながるか分からない、という不安があったのかもしれない。

多くの在日コリアンの生活の拠点である大阪市・鶴橋駅前。特に2013年から2014年にかけて、過激なヘイト街宣がこの周辺でも繰り返されてきた(安田菜津紀撮影)

 母も祖父の死後しばらくして、祖父側の親族と縁を切ってしまった。「祖父だけではなく、叔父二人もヤクザで、母が“あの二人は『その世界』しか知らなかった…”と嘆いていたこともありました。酷い偏見ですが、“ヤクザの子はヤクザになる”と言う人も周囲にいたそうです。彼女が恐れたのは私が彼らに近づくこと、もっといえば彼らを通じて、私が祖父の生き方に近づくことでした」

 その断絶は一成さんにとって、ルーツを断ち切られることを意味していた。アイデンティティに対する、複雑な思いは募る。「だからこそ、祖母や母は、自分の出自を嫌い、憎んでいるのだと思っていました」

日雇いをして透けて見えた搾取の構造

 一成さんはかつて、映画関係の仕事を目指していた。

 「父も映画が好きで、小学校の頃から映画館に連れて行ってもらっていました。そのうち父と行く娯楽映画では物足りなくなり、当時の毎日新聞大阪本社の地下と最上階にあった名画座などにひとりで行くようになりました。あの年齢で観るには複雑な映画も観たし、マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』には感銘を受けた。中学生になると、学校をさぼって映画を観にいくこともありました」

 大学進学を決めたのは、大卒の方がそうした仕事へのチャンスが増えるだろうと思ったからだった。進学してほどなく、京都での下宿生活がはじまる。自宅から通うこともできる距離ではあったが、父とも母とも、どちらとも一緒にいたくなかった。以来、誰かが結婚する時と亡くなった時以外、ほとんど家には寄り付かなくなっていった。

 大学時代は留年を繰り返しながら、日雇い労働者として土木工事で働きながら生活費や学費を稼ぐ日々を送っていた。それは一成さんが生まれる前の父が、日銭を稼いできた仕事でもある。「今思うとなんで親父がああいう人になったのか、その経験を見たかったのだと思う」

 現場にいると、一筋縄ではいかない複雑な搾取の構造が透けて見えることがあった。業者に「労働力」を提供する「人夫出し」の経営者が、在日コリアンであることも少なからずあった。

 「“底辺労働”である程度の資金が貯まれば、目端の利く人間は搾取される側からする側に回っていく。それが資本主義社会のシビアな現実です。その“搾取する側”の中には、マイノリティもいる。彼らの進出可能な分野は限られているわけですから。もちろん“人夫出し”が軒並み在日なんてことはありえないですが、父もその一側面だけを見て、差別や偏見を増幅させたのかもしれません」

 父はまさにこうした環境の中で、単なる「労働力」として搾取される側の人間だったのだ。父親は青森の貧しい農家で、10人きょうだいの9番目として生まれた。“口減らし”で追われるように家から出され、上京し、日雇い労働や土建屋の住み込みなどを転々としながら関西までたどりついたのだった。「皆自分をバカにしていた」と、当時のことを話していたこともある。

 「その搾取の中での屈折した思いがあったのかもしれません。そんな生い立ちだからこそ、人の愛し方が分からない、自分の延長線上でしか相手が見れない、自分と違う他者の受け入れ方がわからなかったんでしょう。例えば子どもが駄々をこねる、ということが理解できない。それで些細なことで逆上したのかもしれません」

新聞記者時代に選んだ「名乗り」

 一成さんは2年間留年したため、年齢制限により、映画会社や番組制作会社などへの就職はすでに難しくなっていた。当時、年齢の壁に突き当たらず入社試験を受けられたマスコミの中で、毎日新聞社に入社することになる。一成さんが25歳のときだった。

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