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「言論の自由」という幻想:いま米国で起きていることに寄せて/下

「不自由」であると感じるところから議論をスタートしなければならない

塩原俊彦 高知大学准教授

「言論の自由」という幻想:いま米国で起きていることに寄せて/上 

 前回の記事でトランプをめぐってのSNSでの「検閲」の状況を見てきた。ここで、筆者なりの「言論の自由」をめぐる問題整理を提起してみよう。簡単に言えば、「言論の自由」も「学問の自由」も主権国家を前提とする近代システムにおける「理想」にすぎない(「学問の自由」については、拙稿「日本学術会議騒動にみるもう一つの違和感」を参照)。言論を支える言語は国家語というかたちで国家によって守られつつ、義務教育を通じて押しつけられている。そうであるならば、言論はそもそも自由ではない。学問も国家による研究支援が常態化しており、本来、自由とは言えない。

 憲法によってこれらの自由が保障されているとしても、憲法は一つの国家の定めた法にすぎず、憲法の規定自体を不可侵なものとして崇めてはならないのである。むしろ、めざすべき目標と解釈すべきなのだ。それは、中立性が存在するかのようにみなしてジャーナリズムや教育現場での中立性を説く主張が実はインチキなのとよく似ている。真の意味での中立性は、本当は達成・維持できないからだ。

「公共空間」の大切さ

 もう一つの論点としてあげたいのは、「公共空間」規制は当然ということである。「言論の自由」も「学問の自由」も公共空間との関係のなかで主張されてきた。二つの自由が公共性をもつからこそ、実は国家規制の対象でありつづけているのである。ゆえに、この二つの自由は国家によって規制されており、本来、自由ではない。

 あるいは、言論も学問も言語を介してなされる以上、言語による制約を受けており、決して自由ではない。もっと言えば、人間は「条件づけられた存在」(ハンナ・アーレント著『人間の条件』)であって、そもそも自由ではない。

 この点をよく理解しているのは欧州だ。いま、欧州委員会はデジタルサービス法(DSA)とデジタル市場法(DMA)という二つの法律を制定しようとしている。その根底に流れているのは、公共空間への規制は合理的とみなす欧州の「知」なのである。

 わかりやすく言えば、欧州の各都市の景観が美しいのは、彼らが公共空間規制を当然と受け入れてきた結果だ。これに対して、公共空間概念が育たなかったアジアでは、都市の混沌が生まれ、看板やネオンサインの乱立といった醜い世界が公然と広がっている。こうした歴史的蓄積の違いが「言論の自由」や「学問の自由」をめぐる問題に対する誤った対応につながりかねないのである。

「不自由」から出発せよ

 大切なのは、不自由に気づくことなのだ。はっきり言えば、本来、言論は不自由であり、学問も不自由なのである。自由は不自由に気づいてはじめてその価値が理解できる。ゆえに、言論の不自由や学問の不自由に気づいて、はじめてそれらの自由の価値がわかるはずなのだ。「言論の自由」とか「学問の自由」を居丈高に叫び、その侵害を批判するのは本質を理解していない人々の戯言でしかない。これらの自由はたしかに重要だが、それはめざすべき目標であって、議論すべきなのは具体的な不自由の中身なのである。

 中国メディアはいま、世界のだれもが真に言論の自由を享受しているわけではないというメッセージを中国の人々に向けて強化している(「ニューヨーク・タイムズ電子版」の記事を参照)。それにより、中国共産党が中国の言論を取り締まる道徳的権限を正当化しているようにみえる。ここで気づいてほしいのは、議論の核心が言論の自由の有無にあるのではなく、具体的な不自由をどう克服すべきかという問題にあることなのである。

 筆者は、その昔、ソ連やその支配下にあった中東欧諸国の人々が言論弾圧に苦しみ、その不自由ゆえに自由を渇望していたことを知っている。かつてチェコのプラハ大学の教員でありながら、1977年に人権回復を求めて出された「憲章77」に署名したために大学を追われ、当時大工をしていた人物に、筆者は1981年にプラハで会ったことがある。彼の粗末な部屋で、そのころの写真を見せられたことを覚えている。バケットの切れ端にレバーペーストをつけて食べながら、言論弾圧の苦しみについて教えられたのであった。こんな経験からみると、いま世界でもっとも自由の大切さを痛感しているのは、北朝鮮にいる人々なのかもしれない。

「言論の自由」があると考えている人々の能天気さ

 最初に紹介したブージュは記事のなかで、「ソ連では台所でしか笑えなかったのが、欧州ではそこでも笑えなくなってしまった」という話を書いている。テロ攻撃や新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への防衛を名目に、欧州でも人々は不自由を強いられている。しかし、それに気づいていないと言いたいのである。

 もっとも怖いのは、言論の不自由に気づかないために、その不自由に抵抗したり対抗したりしないままどんどん不自由になってしまう事態である。たとえば、いま、世界中の言論の自由が急激に制限されつつあることに気づいている人はどれだけいるだろうか。テレビに出てくる感染症の「専門家」なる人物はそもそも怪しい。かつ、彼らが自分の考えをそのままテレビでのべているかどうかも疑わしい。

 ここで重大なのは、「だれが正しくてだれが間違っているか」ではない。大切なのは、「だれが発言権をもっているか」だ。テレビでの発言権はだれによって担保されているかまで考えなければ、テレビでの発言の不自由さには気づけない

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