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日米協議で放った乾坤一擲のジョーク。中国の“乾杯攻撃”に立ち向かい……

連載・失敗だらけの役人人生⑧ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓

黒江哲郎 元防衛事務次官

東京でのレセプションで中国大使館の武官(右)と話す、防衛事務次官当時の黒江氏(左)。真ん中は妻の聖子さん=黒江氏提供

2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。

普天間問題で直球勝負

 私は2009年(平成21年)から2012年(平成24年)までの三年間、民主党政権下で防衛省の防衛政策局次長として日米安保協議を担当し、普天間基地の辺野古移設やオスプレイの普天間導入などに携わりました。民主党政権は、普天間移設について「最低でも県外」を主張し、自公政権下で結ばれた日米合意を事実上自紙に戻したため、米側との議論もゼロならぬマイナスのラインからスタートしなければなりませんでした。

2009年11月、日米首脳会談に臨むオバマ大統領(左橋)と鳩山由紀夫首相(右端)=首相官邸。朝日新聞社

 同盟国である米国との間では、日常的に様々なレベルで安全保障に関する政策協議が行われています。中でも中心的なものが次長・審議官級の協議で、当時は月に一度以上のペースで開催されていました。メンバーは、日本側が私と外務省北米局の審議官、米国側が国防・国務両省の次官補代理という四者でした。普天間移設問題もこの場で協議されましたが、双方が自らの論理を主張し合い一歩も引かない直球勝負となりました。

 既に一度政府間で合意した内容を日本側がひっくり返すという形だったので、出だしから日本側が難しい立場に立たされました。日本側は「地元の理解を得て安定的に基地を使用するのは日米共通の利益であり、既になされた合意についても検証が必要だ」と主張するのに対し、米側は「両政府間でなされた合意は有効であり、見直す必要はない。合意について地元の了解を取り付けるのは日本政府の責任だ」と反論するという構図です。

 協議が直球の投げ合いとなり論理の応酬になると、議論はかみ合う反面、雰囲気はどうしても刺々しくなります。この時期の次長・審議官級協議は正にその典型でした。

日米協議のため米国へ向かう防衛政策局次長当時の黒江氏=2012年、千葉・成田空港。朝日新聞社
 ある日の協議の冒頭、私が普天間基地問題に関する日本側の最新の検討状況を説明したのに対して、米側から皮肉たっぷりに"Thank you very much for your very very disappointing briefing."と言われたシーンは未だに脳裏に鮮明に焼き付いています。当時は米側から「d」で始まる言葉(disappointing, discouraging, disgusting等々)を次から次へと投げかけられて不愉快な思いをしていたのですが、あまりに何度も言われるので、最後には時候の挨拶みたいなものだと聞き流せるようになっていました。

 またある時には、新聞に「日本側は、グーグルマップに線を引いただけのいい加減な案を示すだけ」というアメリカ発の記事が掲載されたこともありました。場外乱闘を狙った米側のジャブでした。この頃、我々のチームの施設業務の専門家は、政権が思いつく様々な案をフォローし、不眠不休で実現可能性を追求していました。現地調査のため、チームのメンバーが徳之島へ飛んだこともあります。

 いい加減な作業などしていないのに、政権幹部からは「米側からこんな事を言われるのは事務方の作業に問題があるからではないか」と難詰されました。不愉快ではありますが、幹部が我々よりも新聞記事を信じたというのは米側のメディア工作が奏功したということだったのでしょう。

 もちろん、日本側が一方的に押しまくられてばかりいた訳ではなく、開始前にこちらが席を蹴って協議を決裂させたこともありました。一部には我々役人が米国と気脈を通じて移設先を強引に辺野古へ戻したように解説する向きもありますが、我々は当時の政権が指示する方向で解決策を見つけるべく、米側に対し常に厳しい議論を挑んでいました。

 しかし、最終的に普天間移設問題は原案通り辺野古移設で決着し、「最低でも県外」は実現しませんでした。民主党政権の主張通りに正面から直球勝負を挑んで、米側から見事に打ち返された、というところでしょうか。交渉当事者として、この結果については複雑な心境だとしか言い様がありません。

乾坤一擲のジョーク

 当時の日米協議はいつもギスギスしていたので、もう少し良い雰囲気の中で協議したかったというのが正直な感想です。私は元来口が重く、陽気な米国人相手に冗談を言ったりするのは苦手なのですが、あまりの雰囲気の重さに耐えかねて乾坤一榔のジョークを放ったこともありました。

 2011 年(平成23年)4月1日のことです。この時期は、普天間移設が進展していなかった上に、東日本大震災の直後ということもあって日米協議にも停滞感が漂っていました。そんな雰囲気をどうにか変えられないかと考えていたところ、協議前日の3月31日にフランス大統領が来日して日仏首脳会談が行われました。

 当時、空自のF4戦闘機の後継機選定が課題となっており、下馬評では米国のF35が圧倒的に優位と見られていたのですが、一応フランスの戦闘機「ラファール」も候補に入っていました。そこで、これをネタに一計を案じました。

F4EJファントム=1971年、愛知県の航空自衛小牧基地

 日米協議の冒頭、「今日は重要な報告が一つある。昨夜の日仏首脳会談で、フランス側から水没したF2戦闘機の代替としてラファールを供与しても良いとの提案があった。来るべきF4後継機の選定に当たっても、この提案は考慮に入れることになるだろう」と切り出しました。松島基地で津波の被害に遭ったF2の代替機をフランスが供与してくれるので、この好意に報いるためF4後継機の選定では仏製戦闘機を有力候補として扱う、という趣旨です。

 もちろん架空の話なのですが、F2の水没は事実だったので、私のカウンターパートは思わぬライバル出現と思い込み「フランスはいくらで売ると言っているのか」と真顔で問いてきました。私が真面目な顔で「今後の調整によるが、無償援助の可能性もあると聞いている」と答えたところ、彼はやや顔を引きつらせて「なんと気前の良いことか」とつぶやきながらメモをとっていました。

 気がつくと私の隣に座っていた外務省の審議官も怪訝な顔でメモをとっていたので、頃合いと判断して「今日は4月1日だよね」と言ったところ、会議室は大爆笑に包まれました。エイプリルフール限定のジョークでしたが、この日の協議はいつになく和やかに進みました。

直球が通用しなかった沖縄

 もう一方の当事者である地元沖縄県との協議では、直球が全く通用しませんでした。日米協議に臨む際と同様に、沖縄県に対しても必死に論理的な説明を試みましたが、地元との協議は全くの別世界でした。

 私は、人口密集地にある普天間基地の危険を早期に除去することが最優先のはず、人口の少ない北部に移設すれば安全性は高まり騒音被害も減少する、キャンプシュワブなら埋め立てで基地面積を若千増やすだけで対応可能、それにより海兵隊員の数も減る、本島南部の多くの米軍施設も返還され経済的にも大きな恩恵がある、といった説明を繰り返しました。

米軍普天間飛行場の移設へ埋め立て工事が進む辺野古沖=2020年、沖縄県名護市。朝日新聞社機から

 この辺野古移設案は、政府が関係者の意見を聞きながら何年もかけて練り上げたものです。今でも唯一の現実的な解決策だという自信がありますが、沖縄側からは全く前向きな反応を得られませんでした。そればかりか、面と向かって「あなたの説明は理屈ではそうかも知れないが、我々の心に全く響かない」と言われたこともありました。

 沖縄出張の際に生卵を投げつけられたこともありました。2015年(平成27年)8月のことでした。防衛政策局長として大臣の沖縄出張に随行し、那覇市内に入ったところで乗っていた沖縄防衛局の車に生卵がぶつけられたのです。

 たまたま大臣の車列とは別ルートで行動中の出来事で、どうやって車が特定されたのかはわかりません。もちろん、誰が投げたのか、私が標的だったのかも知る術はありません。車に生卵を投げつける遊びが流行っているのかとも思い、当時沖縄で暮らしていた娘にも尋ねたのですが知りませんでした。直球ばかり投げていたので、お返しに生卵を投げてやろうと考えた人がいたのかも知れません。

 沖縄基地問題に携わる人たちの間では、昔から「一緒にヤギ汁を食って、泡盛を酌み交わさなければ本音では語り合えない」と言われてきました。我が国で唯一地上戦を経験し戦後も長らく米国の占領下におかれてきた沖縄県の歴史に対する理解や、そうした歴史によって形作られてきた県民の「感情」に対する配慮がなければ沖縄県民を動かすことは出来ない、性急に理屈で説得しようとしてもうまくいかない、という意味なのだと思います。

 十分なコミュニケーションがとれずに私の現役時代は終わってしまいましたが、退官後に当時県幹部だった方とお付き合いを深めさせて頂く中で、徐々にわかってきたことがあります。

 2013年(平成25年)12月に沖縄県が辺野古の埋め立てを承認した際、県は政府に対して「普天間基地の5年以内の運用停止」という要望を出しました。この翌年に防衛政策局長となり再び沖縄問題に携わることになった私は、この要望に大いに悩まされました。5年間のうちに代替施設の建設を完了し、普天間基地の運用を停止するのはほとんど不可能だったからです。

住宅街に隣接する米軍普天間飛行場。オスプレイが並ぶ=2020年、沖縄県宜野湾市。朝日新聞社

 しかし、この要望には、現実的かつ段階的に在沖縄米軍基地を整理・縮小していこうという思いとしたたかな戦略が込められていたのです(「市ケ谷台論壇」既掲の拙文「普天間移設問題を通して考える日米同盟と沖縄問題」参照)。残念ながら、現役当時はそのことを十分に理解していませんでした。相互に理解し合い共感を得るためには、やはり時間をかけて対面で話し合い、信頼関係を作らなければなりません。

 コロナの影響で難しい時期が続きそうですが、これからもお付き合いを大切にしていきたいと考えています。

黒江氏(前列中央)が防衛事務次官当時の2016年、かつて沖縄の米軍基地問題で交渉した元県幹部2人(前列左右)と東京で再会した懇親の場で。2人は仲井真県政当時の又吉進・知事公室長と當銘健一郎・基地防災統括監=黒江氏提供

相手に恵まれた中国との対話

 防衛政策局で局長や次長を務めていた時には、米国だけでなく中国や韓国など様々な国の国防当局者と対話や交流を行う機会がありました。それらは基本的に国益を背負っていわゆる直球勝負で議論する場だったので、協議のたびに準備に相当の時間を費やし、論理を研ぎ澄ませて臨むよう努力しました。同時に、これらは人間同士の付き合いの大切さを再認識する機会ともなりました。

 日中防衛交流・安保対話は、両国防衛当局間の信頼関係を構築することが出発点であるため、米国などとの協議とは異なり、特定のアジェンダについてスピーディに議論が進むことはなかなか期待できません。加えて、日中の政治的関係の影響を受けて協議そのものが中止されたり、いざ協議が始まっても中国側の公式見解の連発に悩まされたりするのが常でした。

 ところが幸運なことに、私は極めて建設的な議論をするカウンターパートに恵まれたのです。海軍少将だった彼は、海上における日中間の偶発的な衝突を避けるための枠組みが必要だという強い意識を持っていました。彼は、協議の中で日本側と意見が合わないような場合に、「この部分をこう修正したらどうか」と建設的な妥協案を提示してくれるのです。

北京・天安門前=2020年。朝日新聞社

 自らの主張に固執して妥協点を探ろうとしない従来の中国側の態度に辟易していた我々にとっては、新鮮な驚きでした。担当が彼に替わったことが契機となり、日中海上連絡メカニズム(当時)の調整は劇的に前進しました。野球に例えて言えば、試合がなかなか始まらない、始まっても一球ごとにベンチからクレームがつくといった様相だったのが、彼が監督になった途端に試合がスムーズに始まり、好投好打の応酬でどんどん回が進んで行った、というような感じでした。

 2012年(平成24年)6月に北京で行われた協議では、事務レベルで大筋合意に達し、あとは大臣同士の署名を残すのみというところまで漕ぎつけることが出来ました。その夜に中国国防部が主宰してくれた夕食会は、色々な意味で思い出深いものとなりました。

 最初は、すっかり打ち解けた件の海軍少将と談笑しながら、本場の中華料理に舌鼓を打っていました。ところが、宴も半ばを過ぎた頃、中国海軍の若手将校たちが乾杯攻撃のため大挙して押し寄せてきたのです。しかも、この若手艦隊はいかにも酒に強そうな男性士官連と何人かの女性士官との混合編成で、彼女らと乾杯する時にはこちらは二杯空けねばならないという特例まで用意されていました。

 この攻撃にこちらも総力を挙げて対抗しようとしたのですが、気がつくと宴会場内の日本側兵力は在中国防衛駐在官の一等海佐と私の二人だけになっていたのです。日本から同行した課長以下の主要メンバーは、別室で食事もせずに協定本文の最後の詰めに忙殺されていたのでした。兵力を分断され二人だけで大艦隊を迎え撃たざるを得なかった我々は、圧倒的な兵力差のためあっという間に撃沈されてしまいました。

 あれほど苦しかった宵(酔い?)は安酒を暴飲していた学生時代以来で、貴州芽台酒の威力を思い知らされました。こうして文字通り体を張って進めた協議でしたが、民主党政権による尖閣諸島国有化決定のため大臣の署名が遠のいてしまったのは本当に残念なことでした。

※写真はイメージです

北京の店に並ぶ中国の銘酒=1973年

 ところで、この海軍少将と付き合っているうちに、彼が日本だけでなく米国との協議も担当していることがわかってきました。しかも、彼の米国のカウンターパートは、日米安保協議で私が議論を戦わせていた同じ国防次官補代理だったのです。

 そこで、ある時私はその国防次官補代理に例の中国海軍少将の印象を聞いてみました。すると「極めて建設的」という私の印象と寸分違わぬ答えが返ってきました。一方で、中国国防部の海軍少将にも米国のカウンターパートの評を聞いてみたところ、彼の答もやはり私の印象と全く同じで「極めてタフなネゴーシェーターで決してyesと言わない」というものでした。

 いずれ三人で一堂に会して旧交を温められたら楽しかろうと思うのですが、今までのところは機会を見つけられずにいます。

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