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失敗だらけの健康管理(上)「黒江部員が倒れましたっ!」徹夜続きで昏倒は武勇伝?

連載・失敗だらけの役人人生⑩ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓

黒江哲郎 元防衛事務次官

1998年、東京・西新橋での出勤風景

2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。

遠洋航海、食中毒で大目玉

 若い頃は、「年を取らないとわからないことなどあるはずがない」と本気で思い込んでいました。いわゆる若気の至りというやつです。私の場合、その最たるものが健康管理でした。若さにまかせて自分の体力を過信し、健康状態に無頓着だったこともあり、様々な体調不良に見舞われました。

 1983年(昭和58年)7月、若手キャリア恒例の三年目研修の一環として海上自衛隊のグアム遠洋航海の艦艇に同乗させて頂きました。これは海上自衛隊の部内幹部候補生向けの練習航海で、約1か月かけて呉からグアム、フィリピンを回り、沖縄経由で帰ってくるというものでした。艦内での三段ベッド生活や幹部候補生の実習訓練の見学、海上でのハイラインによる別の艦への移動(並走する二隻の間にワイヤーを渡し小さなゴンドラで移動=編集部注)や操艦・操舵の実地体験、さらにグアムやフィリピンでの現地研修はいずれも貴重で楽しい経験でした。

1983年夏に遠洋練習航海に出発する海上自衛官たち=神奈川・横須賀。防衛省の動画「昭和58年 防衛庁記録」より

 そんな中、フィリピンのマニラに不幸が待っていました。寄港直前には必ず艦内で現地情勢に関するブリーフィングが行われ、様々な注意事項が伝達されます。フィリピンに関しては、食事の際に生ものや生水、海産物を避けるように特に注意がありました。寄港してすぐに乗組員全員がフィリピン海軍の歓迎昼食レセプションに招かれ、それが済むといよいよ上陸。自由行動となり、同期生何人かとつるんで市内観光に繰り出しました。

 若くて無謀だった我々は、注意を無視して市内のシーフードレストランでブイヤベースかなにかを食べ、さらにハイアライ(賭けの対象となっているスカッシュのようなプロスポーツ)を観戦に行きました。私はそこで小金まで儲けて、意気揚々と艦に帰ってきたのですが、その夜半から激しい腹痛と吐き気に襲われたのです。

 翌朝医官の診察を受け、「昨夜何を食べたのか」と問われ、命が惜しかったので正直に白状したところ、「だからあれほど海産物は食べるなと注意したじゃないかっ」と大目玉を食らいました。その日は艦内のベッドに寝たまま上陸する同期生たちをうらめしげに眺めていたのですが、時間の経過とともに様子が変わってきました。練習艦隊は確か三隻で構成されていたのですが、他の船でも同じ症状で倒れる実習生が出てきたのです。

 結局、隊全体で100人近く食中毒患者を出し、原因は我々の軽率な行動ではなくお昼のレセプションではないかとの疑いも出てきました。医官の怒りも少し和らぎましたが、それで症状が軽くなるわけもなく、せつかくの三日間のマニラ寄港もわずか半日しか上陸できず、賭けで儲けた現地通貨を使う機会もなく終わってしまいました。

 それにしても不思議だったのは、同じものを食べた他の同期生たちは何ともなく、私だけが発症したことです。私以外の同期生がみんな鉄の胃袋の持ち主だったのか、あるいはパーティで私だけが意地汚く大食したのか…。今はすっかり面影もありませんが、若い頃の私は「痩せの大食い」で、口の悪い同期生から「人間ディスポーザー」などと呼ばれていました。自覚はありませんが、私だけ食べ過ぎたのかも知れません。

仮眠1時間1週間、靴下も変えず……

 1986年(昭和61年)の通常国会に、防衛庁は自衛隊法第95条の改正と第100条の5の追加を内容とする法律案を提出しました。防衛庁が自衛官定数等の機械的な改正にとどまらず実体的な内容のある法案を提出するのは、久しぶりのことでした。自衛隊に対する世間の厳しい目を反映して、法案を国会に提出してもなかなか審議してもらえず、3年に1度くらいしか成立しないという状態が続いていたのです。

 しかし、同年1月、貿易黒字解消のためフランス製要人輸送ヘリのスーパーピューマを政府専用機として輸入することとなったのを契機に、自衛隊にその運用権限を与えるため自衛隊法に条文を追加する必要が生じました。さらに、これに併せて、かねて懸案だった第95条の武器等防護の規定を改正し、艦艇やレーダー等を守る際にも武器を使用し得るよう措置することとなったのです。

陸上自衛隊の特別輸送ヘリ「スーパーピューマ」=陸自サイトより

 事態対処法制や平和安全法制など数多くの厄介な立法作業を経験してきた現在の防衛省の尺度で見れば、この改正法案は多少の論点を含んではいるもののさほど難しいものではありません。しかし、何年ぶりかの実体改正だった上、法案審議のノウハウもほとんど伝えられていなかったため、当時の担当にとっては大ごとでした。入庁五年目で法規課の調整主任だった私は、運悪く担当の一人となってしまったのでした。

 私の記憶では、法案提出の方針が決まったのは前年の12月末で、準備期間はほとんどありませんでした。年が明けてすぐに作業を開始し、1月のうちに法制局審査が始まりましたが、久しぶりの実体改正ということで法制局の参事官も気合いが入っていました。法制局の参事官は別名「一条三時間」と呼ばれるほど詰めが厳しかったのですが、この法案は重要部分が二条のみだったにもかかわらず審査は六時間ではとうてい終わりませんでした。

 審査が佳境に入ると、朝持ち込んだ資料に関するやり取りが昼食と夕食をはさんで夜まで延々と続き、日が改まる頃に膨大な宿題を抱えて防衛庁に帰り着き、朝までかかって答を用意し、1時間ほど仮眠してまた法制局へ赴くという繰り返しでした。

※写真はイメージです

寸暇を惜しんで、喫茶店で仮眠する背広の男性=1991年、東京・新橋=朝日新聞社

 そんな泊まり込み生活を1週間ほど続けた末にやっとの思いで帰宅したところ、家内は大層心配して労ってくれましたが、私が脱いだ靴下は有無を言わさずゴミ箱行きとなりました。考えてみると、その間ずっと役所では風呂に入れず着の身着のままで過ごしていたのでした。その晩は死んだように眠り、翌朝日覚めて起き上がった途端にめまいに襲われ、そのまま倒れ込みました。

 運悪くそこに味噌汁の入った鍋が乗ったストーブがあり、私の頭がぶつかったはずみで鍋はひっくり返り、中身は周囲に撒き散らされてしまいました。奇跡的に私も家族も味噌汁の直撃は受けずに済みましたが、気がつくと当時1歳だった息子が倒れた私の上に這い登って私の顔を覗き込んでいました。その時の子供ながらに不安げな息子の表情は、今も忘れられません。

 体力を過信し、と言うよりも体力を気にする余裕もなく、仕事に追われた挙句に招いた悲喜劇でした。誰も火傷しなかったのは本当にラッキーでした。

「黒江部員が倒れましたっ!」

 防衛局計画課の総括班長として勤務していた時期に、医師から「自律神経失調症」と診断されました。これは、ストレスなどが原因で交感神経と副交感神経のバランスが崩れ様々な症状を招く病気とされています。私の場合には、血管の急激な拡張による脳貧血という形で現れました。1992年(平成4年)12月、中期防衛力整備計画(中期防)を担当していた時のことでした。

 ちょうど東西冷戦が終わったばかりで、平和への期待感が高まると同時に防衛予算への世論の風当たりが強くなった時期でした。前年の1月に湾岸戦争に対する資金協力の財源として防衛予算が約1000億円減額され、この年に予定されていた中期防の修正においても計画総額を数千億円規模で減額することが見込まれていました。

1991年、入庁10年目の黒江氏=東京・六本木の防衛庁。本人提供

 防衛庁にとっては、どの自衛隊がどれだけ減額されるのか、どの事業をあきらめなければいけないのかは大問題でした。計画課は、事業主体である各幕僚監部(防衛庁で陸海空別に自衛隊を管理する制服組の組織=編集部注)の間の調整に当たりましたが、当然ながら一度配分された経費を減らされることには誰もが激しく抵抗し、なかなか決着しませんでした。

 各幕や大蔵省との間で板挟みになりながら数カ月にわたって協議を重ね、どうにか関係者一同反対はしないというギリギリの案を作成し、次官室の会議に持ち込んだのは閣議予定日の二日前、12月16日のことでした。

 前日から徹夜で資料を整えて、当日は食事をとる暇もなく午後の会議を迎えました。ところが、会議が始まって少ししたところで急きょ事務次官と防衛局長が与党幹部に呼ばれて席をはずすというアクシデントが発生しました。さらに、その空白を狙ったかのように、後方事業を所掌するある局長から「後方重視をうたいながら後方事業費を切ることには賛成できない」という反対論が提起されたのです。

 実を言うと、あらかじめ各幕僚長からは消極的ながらも結論について内諾を得ていたのですが、いわば身内である内部部局の局長連には事前に根回しをする暇がなかったのです。このため、他の局長も反対論に同調して議論は紛糾し、取りまとめ役の次官も担当の防衛局長も不在の中、結論が出ないままに会議は流れ解散となってしまいました。私は「閣議は明後日なのにどうすれば良いのだろう」と途方に暮れながら、次々に幹部が立ち去っていくのを呆然と眺めていました。

 一緒にいた後輩に促されてバックシートから立ち上がろうとした瞬間、立ちくらみのような症状に襲われ、手足に力が入らず次官室のフロアに昏倒してしまったのです。視界がどんどん狭まり、次官付の秘書さんが「黒江部員が倒れましたっ!」と電話で医務室に助けを呼んでいる声を聞きながら意識が遠ざかって行きました。

※写真はイメージです

1947年(昭和22年)3月、日赤広島病院に事務所を開設。1951年(昭和26年)1月10日、比治山山頂に新設された=朝日新聞社朝日新聞社

 次に気が付いた時には、庁舎の地下にある医務室のベッドの上で、その晩は強制的に家へ帰されました。翌日職場復帰してみると、一晩のうちに庁内の合意が形成され閣議決定も予定通り行われることとなっていました。後で問いたところでは、与党幹部への説明を終えて帰庁した事務次官が、事情を知って驚き、反対した局長を押し切って我々の原案を支持して下さったのだそうです。

 こうして中期防の修正は無事に閣議決定され、その日の昼に課員で簡単な打上げ会食をしたのですが、お店のトイレで食べた物をみんな吐いてしまったことを覚えています。肉体的、精神的な疲れが溜まっていたのでしょう。もともと誰からも歓迎されない計画の減額修正という仕事だったので達成感は乏しく、疲労感ばかりが残りました。「防衛庁がよく頑張ってくれた」という総理(宮沢喜一氏=編集部注)のコメントが報道されたことが唯一の慰めでした。

 今思えば、真面目に悩み過ぎたのかも知れません。予算編成や中期計画の取りまとめには締め切りがあります。締め切りがある以上、それが間近に迫ってくれば必ずどちらからともなく妥協の動きが出て来るものです。普通の人は、予算や中期計画の閣議決定を流してまで自説にこだわることはないからです。当時の私はこの単純な真理を理解せず、自分で全部まとめなければならない、と思い詰めていました。

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