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森喜朗氏の「女性理事」発言を生んだ日本社会の「土着性」は克服できるのか

「狭いサークル」の「内輪の協調」を重んじる姿勢が外部への配慮を阻害する構図

櫻田淳 東洋学園大学教授

 一昨年12月以来の新型コロナウィルスの世界的な感染拡大の最中にて、ひとたびは順延された東京夏季オリンピック・パラリンピック(以降、「東京2020」と略)は、本当に開催できるのであろうろうか。「東京2020」は大方の日本の人々にとって、もはや招致決定直後のような「高揚感」ではなく、すでにできることならば避けるべき「負担感」を覚えさせるものになっている。

 こうした空気の中、毎日新聞2月3日付記事によれば、森喜朗(元内閣総理大臣、TOCOG〈「東京2020」組織委員会〉会長)は、2月3日のJOC(日本オリンピック委員会)評議会会合の席で、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる。女性は優れており、競争意識が強い。誰か一人が手を挙げて言うと、自分も言わないといけないと思うんでしょう」と語った。森の発言(以降、「女性理事」発言と略)は、オリンピック憲章にも記される「ジェンダー平等」の理念に違背すると解され、内外に広範な批判を招いた。

「女性理事」発言の本質的な問題とは

 森は後日、自らの「女性理事」発言を撤回したうえで謝罪し、IOC(国際オリンピック委員会)がその謝罪を受け容れる一幕があったものの、結局のところ、TOCOG会長を退くことになった。森の「女性理事」発言が惹き起こした紛糾は、既に停滞していた「東京2020」への機運を一層、萎えさせるものになるであろう。

 しかし、森の「女性理事」発言に対して向けられてきた「ポリティカル・コレクトネス」の観点からのみの批判は、実は単面的であるという評価を免れまい。

 森は本来、「東京2020」の運営を差配する最高責任者として、「東京2020」の開催と運営に向けて国民各層の「共感」を糾合する言葉を発すべき立場にある。にもかかわらず、森の「女性理事」発言は、そうした類の言葉を披露するものではなかった。そのことにこそ、森の「女性理事」発言が暴き出した問題の本質がある。

2月4日、日本オリンピック委員会の女性理事増員方針を巡る発言について記者会見する東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長=2021年2月4日、東京都中央区

森喜朗が体現する日本社会の「土着性」

 森喜朗は、多分に「互いに互いの表情や息遣いが判る半径数メートルの『狭いサークル』の中に入って接したら、相当に魅力を感じさせる」というタイプの政治家である。森は、こうした「狭いサークル」の内に魅力を伝えられる政治家であればこそ、岸信介以来の流れを汲む自民党内派閥「清和会」を領袖として掌握し、福田赳夫以後には安倍晋太郎や三塚博ですらも達し得なかった宰相の座に就くことができた。

 およそ政治は、それが何らかの大仰な理念や構想を語るのではなく、複雑な利害を調整する営みであるという定義の上に立つならば、それを手掛ける政治家に要請されるのは、政界、官界、財界を含めた各界に「互いに互いの表情や息遣いが判る」関係によった人脈を築き、その人脈の上に幾重にも成った「狭いサークル」の中で、自らの意向を地道に説いていくことである。結局のところ、森喜朗という政治家は、日本社会の何処にでもいる「村の差配役・町内会の顔役・中小企業の社長」の「別の姿」なのであろうと思われる。

 森が体現していたのは、日本社会における「土着性」なのである。こうした「土着性」の意味を凝視しようとしなければ、森の「女性理事」発言に端を発した一連の紛糾も、一過性の椿事(ちんじ)に終わるのであろう。

「狭いサークル」で「内輪の協調」を重んじる

 森の「女性理事」発言に反映された「土着性」の意味は、次に挙げる二つの観点から説明できよう。

 第一に、日本社会の「土着性」が最も露骨に反映されるのは、地域や血縁から学閥や職域関係に至るまで、人々が自ら関わる「狭いサークル」での「内輪の協調」を重んじる姿勢においてである。

 こうした「狭いサークル」での協調とは、「互いに互いの表情や息遣いが判る」関係の中で築かれ、継承された合意や常識によって担保されている。森の「女性理事」発言に反映されているのは、正確には「女性を蔑視する」心理ではなく、「『狭いサークル』の中での合意や常識に慣れて、女性を含む『異質な人々』に対する理解や配慮を厭う」心理であったのであろう。

 仮に森が明白に「女性を蔑視する」心性の持ち主であるならば、彼は衆議院議員として議席を維持することも覚束なかったであろう。というのも、「民主主義体制下、政治家の欲する票の半分は女性から投じられる」からである。故に、森の「女性理事」発言に「女性蔑視発言」と通り一遍のラベルを貼って何かを語ったような気になるのは、実は弊害の多いものなのではなかろうか。

 「『狭いサークル』での合意や常識に慣れて、『異質な人々』に対する理解や配慮を厭う」心理に陥ったことがない人々は、日本社会にあって、どれだけいるのであろうか。「狭いサークル」での合意や常識は、一面では往々にして人々に「窮屈さ」を感じさせるものであるけれども、他面ではそれに順応する人々に「居心地の佳さ」を与えることもある。現今、そうした「土着性」の意味を凝視することは、大事であろう。

「狭いサークル」外への配慮を損ねる

 第二に、日本社会の「土着性」は、前に触れた「狭いサークル」での「内輪の協調」を重んずる故に、その「狭いサークル」外には鋭敏な配慮が働かないという結果を招く。

 政治家における「失言」や「物議を醸す発言」として伝えられたものの多くは、「狭いサークル」の内に向けて発せられ、それが外でハレーションを生じさせたものである。森のように「失言」の多さを持って語られた政治家は、この種の「危ない発言」に及んだとしても、「ああ、あのおっさん、またかよ……」と「狭いサークル」の内からは半ば呆れ顔で反応されるのが、精々であるかもしれない。それもまた、「狭いサークル」の中で「互いに互いの表情や息遣いが判る」人間関係を前提にしているのである。

 しかし、森を典型として、「狭いサークル」の内に向けて言葉を発することに慣れた政治家は、その「狭いサークル」の外、即ち「互いに互いの表情や息使いが判らない」人々に向けた言葉を発するのが、往々にして不得手である。森が自らの内閣の政策運営を頓挫させた「神の国」発言騒動というのも、彼が神道関係団体という「狭いサークル」の中で話したことが、メディアを通じて外に漏れたことを発端にしたものであった。森の「女性理事」発言も、その類のものに他ならない。

3Dstock/shutterstock.com

日本社会に深く根を張る強靱さ

 故に筆者は、森に対する「嵩(かさ)にかかった」姿勢での批判には与(くみ)しない。そうした批判は、日本社会の「土着性」を前にする限りは、大方の日本の人々にとっては、「自分のことを棚に上げた」類のものになるからである。

 無論、こうした日本社会の「土着性」は、日本のメディア、学者、知識人によって、永らく批判されるべきものとして語られてきた。第二次世界大戦後、折々に披露された「民主主義」論の文脈では、人々が「土着性」の桎梏(しっこく)から脱して「自主独立」の立場で政治に関わることこそ、民主主義体制の趣旨に相応しいものとして語られてきたのである。

 この観点からすれば、多様に築かれた「互いに互いの表情や息遣いが判る」人間関係の上で幾重もの「狭いサークル」を切り回すという自民党の政治手法は、それ自体が「土着性」を濃厚に反映するものであり、批判に曝(さら)されるべきものであった。平成改元以降に進められた「政治改革」の動きとは、そうした「土着性」を制度の上から克服しようとするものであったと評価されよう。

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