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尖閣諸島、浪高し!~中国海警法から1カ月、日本には唯一“戦略的臥薪嘗胆”の道②

「問題は存在しない」か「棚上げ」か、日中の“同島異夢”

甘粕代三 売文家

尖閣諸島、浪高し!~中国海警法から1カ月、日本には唯一“戦略的臥薪嘗胆”の道①

「石油」とともに浮上した紛争

 尖閣領有をめぐる紛争が海底から波間に浮かび上がったのは今を遡ること53年前、1968年のことだった。

 沖縄本島と同様に米国の施政下にあった尖閣周辺の海底調査を国連アジア極東経済委員会(ECAFE)が行い、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性を指摘。1969年、70年の調査で更にその埋蔵量がイラクに匹敵する可能性が報告されると、70年当時、国連安保理常任理事国の一角を占めた中華民国が尖閣の領有権を主張。1971年4月9日、米国が尖閣列島を含む南西諸島の施政権を日本に返還する方針を明らかにすると中華民国政府は自らに返還すべきと要求。10日には米東海岸の中華民国留学生が米国務省、日本大使館に殺到し抗議活動を繰り広げた。また、この年の7月には中華民国水産試験所の船舶が魚釣島に上陸し、中華民国国旗の青天白日満地紅旗を掲げた事件も発生している。

 中華民国は71年10月25日、中国代表権問題で敗れ、「漢賊両立せず」と自ら国連を脱退。代わって中華人民共和国が国連に加盟し安保理常任理事国の一員となった。そして、国連を脱退した中華民国と同じく尖閣領有権の主張を続ける。

 ここで留意しなければならないのは、国連脱退後の中華民国、台湾は尖閣の主権を今も主張しているという点である。李登輝は総統退任後に尖閣の領有権は日本にあると唱えたが、この発言は台湾で激しい批判にさらされていることを忘れてはいけない。

 「台北(=中華民国)が領有を主張してから半年後に北京(=中華人民共和国)も同様に領有権を主張し始めました。この間に北京がどのように考えを変えたのか? これがいまだに分からないのです。71年10月に台北が国連を追放され、その主張をそのまま踏襲したと見るのが自然なのかもしれませんが」

 駐中国大使経験者は今も首をかしげる。

 明治時代の尖閣列島。島民と共に記念写真に収まる猟銃を手にした古賀辰四郎さん=古賀花子さん提供 明治時代の尖閣列島。島民と共に記念写真に収まる猟銃を手にした古賀辰四郎さん=古賀花子さん提供

 日本は日清戦争さなかの1895年1月14日、「無主地先占」という国際法の原則にもとづき尖閣諸島を日本領に編入すると閣議決定。翌1896年4月1日に沖縄県八重山郡に編入、魚釣島、久場島、南小島、北小島、大正島を国有地とし、大正島を除く4島は、福岡出身の実業家に30年間の期限付きで無償貸与された。日本の領有、実効支配はここから始まり、日本の敗戦まで続くことになる。

 しかし、明治政府は琉球が幕藩体制下で薩摩藩に隷属する一方、清朝の冊封関係もあった二重朝貢国としての歴史も考慮し、沖縄県令も外務卿・井上馨も清朝に配慮し、領有の閣議決定までに逡巡していることを忘れてはいけない。

 日本の尖閣領有の根拠は、1896年4月1日の無主地先占による編入、実効支配である。これに対して台北も北京も古文書、古地図を動員して自らの領有を正当化しようとし、これに対して日本も同様に応戦する。全国紙元北京特派員は、こうした応酬には極めて冷ややかに論評する。

 「実に不毛な論争ですよ

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