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ひめゆりの塔を知っていますか? 戦争を知らない世代が歴史を学ぶ切実な意味

今春、展示を改装したひめゆり平和祈念資料館が志向するものは……

山本章子 琉球大学准教授

 私たちは忘れてしまったのだろうか あなたたちのことを――

 1968年に公開された映画『あゝひめゆりの塔』の予告映像は、このような字幕で始まる。主演の吉永小百合が演じているのは、1945年の沖縄戦で半数以上が死亡した、ひめゆり学徒隊の女子生徒の一人だ。

 ひめゆり学徒隊とは、日本軍の病院での看護活動のため動員された、沖縄師範学校女子部(女師)と沖縄県立第一高等女学校(一高女)の15~19歳の生徒と引率教師、240人の愛称で、136人が戦場で亡くなった(動員されなかった生徒・教師も91人が沖縄戦で死亡)。映画のタイトルである「ひめゆりの塔」は彼らの慰霊碑だが、女子生徒たちが通った那覇市安里の校舎跡地ではなく、ひめゆり学徒隊のうち約2割が米軍の攻撃で死亡した、糸満市伊原の「伊原第三外科壕」の前に建てられている。

 戦後23年たった1968年にはすでに戦争の記憶の風化がいわれていたことを、『あゝひめゆりの塔』の宣伝は示唆している。その後、世代交代が進むにつれ戦争の記憶の共有はますます難しくなっていく。2019年には戦後生まれの人口が全体の84.5%を占めている。今や、ひめゆりを「忘れてしまった」のではなく、「知らない」世代が過半数を占める。

 戦争を知らない人に歴史を引き継げるものだろうか。どのようにすれば可能になるのだろうか。今年もやってくる「慰霊の日」(6月23日)を前に沖縄の地で考えたい。

リニューアルされたひめゆり平和祈念資料館(左)とひめゆりの塔=2021年4月12日、沖縄県糸満市

空前の動員数となった最初の『ひめゆりの塔』

 ひめゆり学徒隊を題材とする映画は、1953年から1995年までに4本製作されている。最もヒットしたのは、1953年1月9日に封切られた最初の『ひめゆりの塔』だ。

 当時は、アジア太平洋戦争の敗戦から約7年半。サンフランシスコ講和条約が発効し、米軍の占領の続く沖縄を切り離して日本の本土が独立を回復してから約8カ月という時期だった。ほとんどが戦争体験者だった日本人にとって、『ひめゆりの塔』は自身の物語として強く共感される。

 動員数は600万人、邦画・洋画で過去最高の配収となる1億8000万円という驚異の興行成績は、朝鮮戦争が続くなか、憲法9条に反して警察予備隊が発足、保安隊に改編されて約3カ月後の映画公開というタイミングも関係していた。

ハワイとひめゆり学徒隊との奇しき縁

 『ひめゆりの塔』は同年3月からハワイの国際劇場でも上映され、日本人移民の間で大きな話題となった。映画に登場する「宮城先生」という引率教師のモデルが、ハワイ生まれの親泊千代子さんであることも注目される。

 戦前から貧しかった沖縄では、国の奨励のもと1899年からハワイへの移民が始まり、アジア太平洋戦争前までに約2万人が沖縄からハワイへ移住した。千代子さんは1930年、8歳のとき家族でハワイから沖縄に引き揚げる。一高女への進学をへて東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)を1943年に卒業、母校の教師となったが、ひめゆり学徒隊に動員されて23歳で米軍の攻撃により死亡した。

 1953年3月21日の『ハワイタイムス』は、ハワイ出身であり、引率教師の中で唯一の女性だった「自決した親泊千代子教諭」の悲劇を取り上げている。記事は千代子さんの姉妹や友達の証言をもとに書かれており、「自決」という誤情報もそれに由来すると思われる。

 ちなみに、ひめゆり学徒隊の生存者たちが中心となって、戦争体験を語り継ぐため1989年に建てたひめゆり平和祈念資料館は、「沖縄戦・ひめゆり学徒隊の歴史を海外に伝える展示プロジェクト」を企画、その第一弾の開催地にハワイを予定している。2年かけた調査をへて、展示会の開催を計画していたが、新型コロナ感染の世界的拡大によって延期となっている。

 日本軍の奇襲攻撃でアジア太平洋戦争が始まった地であるハワイで展示会を開催するという、非常に興味深い企画の実現は、今のところコロナ禍の終息待ちだが、ひめゆり平和祈念資料館では2021年10月1日から翌22年2月27日まで、「特別展 ひめゆりとハワイ」を開催する予定だ。

リニューアルされたひめゆり平和祈念資料館では、元学徒の証言映像に多くの人が足を止めて聴き入っていた=2021年4月12日、沖縄県糸満市

二つのリメイク版が興業的にふるわなかった理由

 1953年に『ひめゆりの塔』を手がけた今井正監督は、1982年に同映画を再製作する。1972年に沖縄の施政権が日本に返還され、念願の沖縄ロケが実現した。しかし、28年ぶりに再製作された「伝説の名画」は、邦画では20位前後の興行成績とふるわない結果に終わる。1995年にも、戦後50年記念映画として、別の監督が再製作した『ひめゆりの塔』が公開されるが、興行成績は邦画16位にとどまる。

 メディア社会史研究者の福間良明さんは、この二つのリメイク版がヒットしなかった理由について、当時の映画評論が、アジア太平洋戦争における加害責任の視点が欠けていると評したことを挙げている。

 1982年には、文部省が高校用教科書の検定で、日本の東南アジア侵略を「進出」に、1910年に日本が併合した韓国の三・一独立運動を「暴動」などと書きかえさせた事実が発覚する。中国・韓国からの抗議を受け、鈴木善幸内閣は是正を約束する。

 1995年にも、村山富市内閣が戦後50年に合わせ、アジア諸国への侵略・植民地支配に対する反省と、不戦・平和の誓いを明言する国会決議を採択しようとしたが、自民党の反対で玉虫色の文言に書きかわる。

 福間さんは、こうした時代的文脈の中で、『ひめゆりの塔』リメイク版に厳しい目が向けられたとしながら、当時の評論は、文部省が教科書検定で沖縄戦における住民虐殺の記述を削除させたなどの事実を無視しており、「沖縄への加害」の視点が欠如していたと指摘する。

 私はこれに加えて、1976年には戦後生まれの人口が戦前生まれを上回り、80年代以降、戦争体験が日本人の間で共有されにくくなりつつあったことも指摘したい。ひめゆり学徒隊が「忘れられてしまった」り、戦争に加担した側と見なされるようになった以上に、観客自身の物語ではなくなったことが、リメイク版の興行不振の背景にあるのではないだろうか。

「ひめゆり学徒隊の証言“退屈”」が社会問題に

 戦前生まれの人口は、1947年には7384万人いたが、70年あまりで4分の1に減少し、2019年には1962万人まで減っている。しかも、戦争を体験した世代の平均年齢は81.8歳となっている。これに対し、戦後生まれの人口は1億655万(84.5%)。もはや、ひめゆり学徒隊を「忘れてしまった」のではなく「知らない」世代が、圧倒的多数を占めているのだ。

 戦前から戦後へと世代交代が確実に進むなか、戦後60年にあたる2005年、青山学院高等部の英語の入試問題に「ひめゆり学徒隊の証言“退屈”」という内容が出されて社会問題になった。この“事件”を振り返ってみたい。

 問題ではまず、出題者が高校時代に修学旅行で訪れた、沖縄の「古い防空壕」での経験が以下のように語られる。

 「老ガイドが言った。『では、明かりを消しましょう。』最後の明かりが消えると、暗闇が現れた。〔中略〕『これが戦争です。この洞窟のなかで私たちが唯一望んだことは、いかにしてこの戦争を生き延びるかということでした。私はもう二度と戦争を経験したくありません。』〔中略〕私はなぜその老ガイドがこの旅行のあいだじゅう多くを語らず、また私達の質問にも言葉少なにしか答えなかったのかを初めて理解した。」

 注目されたのは、出題者が次に訪れたひめゆり平和祈念資料館に関するくだりだ。「ひめゆり部隊で生き延びた老婦人が私達に語った体験談は、ショッキングだったし、戦争のイメージについてもすごくよく伝わった。でも、ほんとうのことを言うと、私にとってそれは退屈だったし、私は彼女の体験談を聞いているのが嫌になってしまった。彼女が話せば話すほど、私はあの洞窟の強い印象を失った。」

 なぜ「退屈」だったのかについて、出題者は次のように述べる。

 「言葉の力は強い。でも、問題なのは、私達がそれをどういうふうに理解するのか、なのである。もし聞き手が話し手の考えを理解しなければ、いい話もただの言葉の羅列になってしまう。もう一つの問題は、話し手の意見が強すぎると、違ったメッセージを与えてしまうかもしれない、ということである。」

青山学院への批判を展開した沖縄のメディア

 戦後60年の節目ということもあり、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」を前に、地元メディアは「証言者の努力に冷水」「語り部落胆」などの見出しで、青山学院の入試問題への大々的な批判を展開した。

 80歳近いひめゆり学徒隊の生存者たちが、限られた情報しかない中で、「ひめゆりだけでなく全県民の問題ですよ」などの言葉で記者から強要されたコメントの一部を切り取る形で過熱報道が行われ、当事者の思いは置き去りにされる。

 当時も現在もひめゆり平和祈念資料館を支える戦後生まれの職員たちは、次のように指摘する。

 「戦争の時その壕の中で何が起こったのかの証言を聞くことなしには戦争の実相は分からないのではないだろうか」

 「全く何も知らずに入るとガマはそれこそただの『洞窟』であり、『探検ごっこ』にしかならない。電気を消して暗闇を体験し恐怖を味わったとしても『この場所で何があったのか』を知らなければ意味がない」

自然壕(ごう)「チビチリガマ」の中で行われた慰霊祭で、祭壇に手を合わせる遺族ら=2021年4月3日、沖縄県読谷村波平

ひめゆり平和祈念資料館にとって最も大事なこと

 しかし、修学旅行の平和学習の現場である資料館にとって最も大事なことは、「戦場に身を置いたことのない」「戦争の話は聞きたくないと思う若者」に、どのようにして戦争体験を継承するか、という課題を学校関係者と共有し、一緒に取り組んでいくことである。

 職員の仲田晃子さんは、「今伝わらなくても、証言したことがいつか時を得て重みをもってくる」という、少なくない来館者の経験を、「出会い損ね」と「出会い直し」という言葉で表現する。「出会い損ね」た出題者によって書かれた入試問題をきっかけに、戦争体験の継承に共に取り組む相手との機会を増やしていくことこそが、問題の解決なのである。

 ところが、青山学院高等部の責任者がひめゆり平和祈念資料館を訪れて謝罪した際、報道で事前にそれを知った市民団体が、資料館側が拒絶したにもかかわらず敷地内で抗議行動を実施した。「謝罪を受け入れるべきではなかった」という抗議の電話も来た。地元紙はその後も、青山学院へのバッシングを続けた。

自ら理解する努力を迫る体験者の語り

 青山学院高等部の入試問題から得られる教訓は何だろうか。

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