メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

「君らはなぜそんなに尻込みするんだっ!」 大先輩の事務次官の一喝

失敗だらけの役人人生㉒ 元防衛事務次官・黒江哲郎が語る教訓

黒江哲郎 元防衛事務次官

1992年、カンボジアへ出発する防衛庁防衛局長当時の畠山蕃氏=成田空港。朝日新聞社

2017年まで防衛省で「背広組」トップの事務次官を務めた黒江哲郎さんの回顧録です。防衛問題の論考サイト「市ケ谷台論壇」での連載からの転載で、担当する藤田直央・朝日新聞編集委員の寸評も末尾にあります。

北朝鮮核危機とミサイル防衛

 冷戦終結後、米国は世界に展開する前方展開戦力の削減に着手しました。削減は欧州のみならずアジア太平洋地域にも及び、中国・北朝鮮など冷戦の残滓を抱えるアジア諸国の間では米軍のプレゼンスの行方に大きな関心が集まりました。そうした背景の中で勃発したのがいわゆる北朝鮮の第一次核危機でした。

 1993年(平成5年)3月に北朝鮮がNPT脱退を宣言すると、防衛庁と米国防省との間で朝鮮半島有事への対応に関する協議がにわかに活発化し、衝突が発生した場合の対米支援措置について急ピッチで議論が進められました。また、日本政府の内部でも、半島からの邦人の避難要領や半島から日本へ向かう難民への対応要領などについて検討が進められました。

北朝鮮の核不拡散条約脱退を伝える1993年3月12日の朝日新聞夕刊1面

 さらに、北朝鮮の核とミサイルに対する脅威感が高まったのに合わせて、当時米国で開発が進められていた戦域ミサイル防衛システム(TMD)について米側から共同研究が打診されました。当初、我々事務方の間では、超音速で飛来する弾道ミサイルを直撃して破壊するというコンセプトが技術的に可能なのか疑問が拭えなかったこと、仮に技術的に実現可能でも装備化するまでには巨額の経費を要すると予想されること、米国に向けて発射されたミサイルを迎撃した場合に集団的自衛権行使に当たるとの懸念があること等の疑念が生じ、なかなか前向きな雰囲気にはなれませんでした。

 しかし、当時の事務次官(畠山蕃氏=編集部注)へそうした消極的なラインで中間報告をしたところ、「君らはなぜそんなにしり込みするんだっ」と一喝されました。次官に「北朝鮮のミサイルは我が国に対する明確な脅威だ。それに対応する方策は今の段階では弾道ミサイル防衛しかないんだろ? 我が国の防衛のためにそれ以外に方法がないならやるしかないじゃないか。なのに何でためらうんだっ?」と問い詰められ、私は何も答えられませんでした。

 反省を込めて当時の自分の対応を振り返るならば、冷戦構造下では日本が侵略されるような事態はそう簡単には起きないという感覚が染み付いてしまい、長いものに巻かれてもそんなに困った事にはならない、だから新しいものには慎重に対応するというパターンに慣れてしまっていたのだと思います。よく細部を詰めないで新しいものに飛びつくのもどうかとは思いますが、慎重になり過ぎて必要なことも前に進めようとしないのはやはり本末転倒と言わざるを得ません。いずれにせよ、次官の叱責を機に、ミサイル防衛システムの導入に向けた動きはようやく前に進み始めることとなりました。

 朝鮮半島を巡る情勢は、翌1994年(平成6年)6月にカーター元米国大統領が訪朝して金日成と直接会談し、これを受けて同年10月に米朝枠組み合意が署名されるに至り、ようやく落ち着きを取り戻しました。一連の対応を通じて、朝鮮半島で不測の事態が発生した場合に日米間でどのように役割を分担して対処するのか、自衛隊はどのように米軍を支援すべきか等といった具体的なプランも法的枠組みも不備であることが明確になりました。これを機に、冷戦後の不透明・不確実な状況に対応するため、日米安保体制の信頼性と実効性を高めるための措置が進められることとなりました。

大転換をもたらした平成7年

 翌1995年(平成7年)は、国民の安全を脅かす大きな事案が相次いで発生し、我が国の防衛政策、危機管理政策に大きな転換をもたらした年でした。

 まず、1月17日には6千人を超える犠牲者を出した阪神淡路大震災が発生しました。早朝のTVニュースで高速道路の高架が倒壊している衝撃的な映像が流されるのを見て、私は言葉を失いました。発災直後から防衛庁の内局も対応に当たりましたが、災害派遣を担当していた防衛局運用課はもともと人数が少なかったため膨大な業務の処理に手が回らず、局内の他課から応援要員を得て仕事に当たりました。

1995年1月、阪神淡路大震災で落下した阪神高速道路=兵庫県西宮市。朝日新聞社

 この災害に対して自衛隊は延べ約220万人、車両約34万台、航空機約1万3千機、艦艇約680隻を派遣して大規模な救援活動を行い、その組織力と自己完結的な活動能力に対する評価が高まりましたが、他方で初動段階での地元自治体との連携について課題を残しました。また、当時の政府の危機管理体制は甚だ心もとないもので、現地の状況把握や政府としての対応に手間取り、厳しい批判を浴びました。

 次いで3月20日の朝、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生しました。当時防衛政策課に勤務していた私は、この事件も朝のニュースで発生を知りました。臨時ニュースの映像で都内の地下鉄の駅に救急車がたくさん集まっているのを見て、何かとても禍々しいことが起きているという印象を受けました。出勤後、実は事件の少し前に警察から運用課へ事件に関連する連絡が入っており、どうも化学兵器らしいということを知らされて愕然としました。

 事件が発生したのは午前8時過ぎでしたが、これは官庁の出勤時間帯を狙ったものだったということが後から判明しました。サリンが撒かれた路線のうち特に千代田線と日比谷線はたくさんの防衛庁職員が利用しており、出勤と重なってしまった多くの職員が被害を受けました。

1995年3月、地下鉄サリン事件発生直後の地下鉄日比谷線築地駅付近=東京都中央区。朝日新聞社

 カルト教団が自ら製造した化学剤サリンを用いて一般人を無差別に殺傷するという未曽有のテロ事件でしたが、自分も含めた不特定多数の人間がむき出しの悪意にさらされているという何とも言えない不気味な緊張を感じました。この事件で自衛隊は、警察などに協力してテロの原因物質の特定や汚染された地下鉄車両の除染などに活躍し、特殊武器の知見や対応ノウハウなど自衛隊の有する幅広い能力が脚光を浴びることとなりました。

 その後、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件への対応の反省から多くの組織改編や制度改正が行われ、自衛隊のみならず政府全体としての危機管理体制の整備が急速に進められることとなりました。また、両事案で活躍した自衛隊に対する国民の信頼感と期待感は増大し、自然災害や大規模事故などが発生するたびに自衛隊の活動を求める声が高まって行きました。こうした国民の声は、国連PKO参加などを契機とする「存在する自衛隊から働く(活動する)自衛隊へ」という変化を加速することとなりました。

アイデア尽きてガス欠状態

 この頃の防衛政策課は、安全保障・防衛政策の変わり目だったことを受けて多種多様な仕事を担当していました。以前からの主要業務だった日米間の政策協議の頻度と密度が飛躍的に増した上、PKO派遣や防衛交流・安保対話などの信頼醸成措置への取り組み、軍備管理・軍縮努力への協力、ミサイル防衛システムの検討などの新たな業務が目白押しでした。しかも私が担当していた51大綱の見直し作業には、それらの新しい業務の方向性がすべて流れ込んできていました。

 大綱見直し作業について言えば、前年に出された防衛問題懇談会の最終報告を庁内や政府内で調整して新たな大綱の文言に落とし込んでいくのは骨が折れました。さらに、これに関連して日米協議に陪席させられることもありました。前の連載(第18回=編集部注)で触れた情報本部設立準備のための弥次喜多道中の後ではありましたが、私の英語能力は依然として芳しくなく、協議に陪席しても貢献できないうえ、随行者の大事な仕事である公電の起案は私よりはるかに英語能力が高く通訳も兼ねていた後輩に任せきりでした。正直なところ、この時期の日米協議は重荷で、多大なストレスを感じていました。

※写真はイメージです

2004年。朝日新聞社

 そんな日々を送りながら、ふと気がつくと1986年(昭和61年)に運用課に配属されたのを振り出しに調査第1課、計画課(旧計画官室)、そして防衛政策課と同じ局内を渡り歩いて9年目を終えようとしていました。今も昔もこの局にはやりがいのある仕事がたくさんありますが、同時に心身のストレスも生半可なものではありません。51大綱の見直し作業もあと一息の所まで来てはいましたが、4年間も続けてきたことで新たな発想も尽きた感じがしていました。

 今思えば、「ガス欠状態」だったのだと思います。この年の夏頃には、そのことを周囲に対しても口に出すようになっていました。周囲も上司も私の煮詰まった状況に配慮してくれて、8月についに防衛政策局を離れることとなりました。新たに任ぜられたのは防衛庁長官秘書官という全く未知のポストでした。こうして平成7年は私個人にとっても大きな転機となったのですが、この年はまだ終わりではありませんでした。

 秘書官に任ぜられて一か月も経たない9月4日、沖縄駐留海兵隊等に所属する3人の米軍兵士による少女暴行事件が発生しました。このおぞましい事件は、戦後長らく沖縄に課せられてきた米軍基地負担という同盟の負の側面をクローズアップすることとなりました。この事件を契機に、地位協定の見直し要求、さらには冷戦後における海兵隊の沖縄駐留の必要性そのものに対する疑問の声が高まりました。

 実は、この年の2月に米国防省は通称「ナイ・イニシアティヴ」と呼ばれた「東アジア戦略報告(EASR)」を発表し、冷戦後においても東アジアに10万人の米兵を維持するとしてアジア地域へのコミットメントの継続を宣言していました。この報告は、北朝鮮の第1次核危機に直面した日本や韓国に一定の安心感をもたらす効果がありましたが、基地負担に苦しむ沖縄県にとっては米軍基地の固定化・永続化につながる恐れを感じさせるものでした。米兵少女暴行事件はこうした懸念を増幅し、一気に反基地運動が盛り上がる結果につながりました。

1995年10月、沖縄での米兵による少女暴行事件への抗議集会=沖縄県宜野湾市。朝日新聞社

 これを受けて9月28日には、沖縄県知事が米軍用地の使用に係る代理署名を拒否し、事態は国と沖縄県との全面的な対決の様相を呈しました。政府は米軍用地の使用権原を確保すべく機関委任事務に係る職務執行命令訴訟の手続きを進めながら、基地負担軽減のため米国との間でSACO(沖縄に関する特別行動委員会)を設置して沖縄県所在基地の返還協議を開始しました。

 このように、大規模災害や特殊な事件・事故に係る自衛隊への期待の高まり、朝鮮半島情勢の不透明化と日米同盟強化に向けた動き、沖縄県における切実な米軍基地負担軽減の要望などが交差する中で、この年11月28日に51大綱に代わる新たな防衛計画の大綱(07大綱)がついに決定されました。ベルリンの壁の崩壊から6年後の事でした。

防衛は大型トラック運転

 51大綱が採用した基盤的防衛力構想は、「軍事的脅威に直接対抗するのではなく、自らが力の空白となって我が国周辺地域における不安定要因とならないよう必要最小限度の防衛力を保有する」という考え方だと紹介されることもありますが、この表現は静的なパワーバランスの考え方を端的に表しています。デタント時代を迎え、我が国の世論は四次防までの防衛力整備に対してどこまで防衛力が大きくなるのか懸念を感じていました。こうした時代の要請に応えて、国際関係が安定している中で目指すべき防衛力の上限を示したのが51大綱でした。ここで求められていたのは、防衛力の量の適切性を説明する考え方でした。

 これに対して、湾岸戦争や朝鮮半島危機への対応、阪神淡路大震災、あるいは地下鉄サリン事件などに直面する中で策定された07大綱に求められていたのは、防衛力を整備するだけでなく自衛隊がこれらの多種多様な事態に対応して活動することでした。このため、07大綱は今後の防衛力に求められる役割として「我が国の防衛」に加えて「大規模災害など各種の事態への対応」と「より安定した安全保障環境の構築への対応」を新たに明示しました。特に、国際社会の平和と安定にコミットする旨を宣言したことは07大綱の最大の特徴と言えます。この多国間主義の考え方と自ら国際的責任を果たそうとする姿勢は、現在の「積極的平和主義」の源流をなしていると言えます。

動画「平成7年防衛庁記録」での「07大綱」の説明

 一方で、07大綱は防衛力の量を規定する概念としては基盤的防衛力構想を維持しつつ、我が国に対する軍事的脅威がより一層見えにくくなったのを踏まえて防衛力全般をコンパクト化することとしました。また、東西対立が消滅し抑止構造そのものが根本的に変化したことを受け、51大綱の「限定的かつ小規模な侵略」に独力で対処し得る防衛力という概念は用いないこととされました。

 これに加えて、07大綱は日米安保体制に関する記述も充実させました。51大綱は防衛力整備を優先課題としており、作り上げた防衛力をどう動かすか、その際に米軍とどう協力すべきかといった議論は未成熟でした。51大綱策定から2年後の1978年(昭和53年)に日米間で合意された「日米防衛協力のための指針」(いわゆるガイドライン)は、それまで曖昧だった自衛隊と米軍との共同対処の基本的な在り方、役割分担の考え方などを示した画期的な文書でした。ただ、51大綱をそのまま踏襲して「限定的かつ小規模な侵攻には日本が独力で対処する」とした上、朝鮮半島有事を含むいわゆる日米安保条約6条事態に関してほとんど触れていないなど実戦的な視点に乏しかったことは否定できません。

 これに対して07大綱は、ポスト冷戦期における日米安保体制の役割を再確認し、その信頼性向上を図るための諸施策を明示しました。北朝鮮による第一次核危機は、日米同盟が我が国の安全確保と周辺地域の平和と安定の維持に重要な役割を果たしていることを改めて示しました。また、大綱策定直前に日米間で大きな問題となった沖縄基地問題は、両国政府を揺さぶりました。このような状況を受けて07大綱は、日米間の情報協力や政策協議の充実、運用面の協力態勢の構築、装備・技術交流の充実に加え、在日米軍駐留関係施策の実施などが重要である旨を強調しました。

 07大綱が日米同盟の重要性を再確認したことは両国間の政策協議を促進させることとなり、翌1996年(平成8年)4月に普天間返還合意、日米物品役務相互提供協定(ACSA)への署名、日米安全保障共同宣言の発出という一連の大きな成果を生みました。こうした日米同盟の緊密化の努力は1997年(平成9年)9月の日米ガイドラインの改定につながり、いわゆる周辺事態における自衛隊の米軍に対する各種の支援を中心として日米共同対処の要領が具体化されることとなりました。

1997年6月、日米ガイドライン中間とりまとめを確認した高官協議=米ハワイ・ホノルル。朝日新聞社

 冷戦終結の前後には立て続けに様々な事案が生じ、日本政府も防衛庁も混乱し、対応に苦慮しました。その混乱の中から、国際社会に対する能動的な貢献として国際平和協力法が制定され自衛隊のPKO参加が始まるとともに、そうした動きをも取り込んだ形で07大綱が策定されました。さらに、これらと並行して発生した朝鮮半島危機や沖縄基地問題の盛り上がりは日米間の率直な議論を促し、同盟の緊密化につながりました。これらは時間のかかるプロセスでした。

 実際、ベルリンの壁の崩壊から07大綱策定まで6年、日米安保共同宣言の合意まで7年を要しました。一見すると鈍感な対応に思えるかも知れませんが、国の防衛は大型トラックの運転のようなものです。砂嵐の中でカーブに差し掛かったら、速度を緩め、砂埃が収まるのも待ちながら四囲の状況をよく見極めて、ゆっくりハンドルを切らなければなりません。国の安全を全うするためには、拙速を避け慎重に対応しなければならないということだと思います。

・・・ログインして読む
(残り:約1867文字/本文:約8385文字)