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タリバンの「勝利」がもたらすものは~米軍撤退に揺れるアフガニスタン②

国際社会が支援してきた民主政権が崩壊。アフガン国民や世界に深刻な影響が……

川端清隆 福岡女学院大学特命教授(元アフガン和平担当国連政務官)

 アフガン情勢は重大な転換点を迎えた。タリバンの攻勢の前にカブールの民主政権が瓦解して、懸念されたイスラム原理主義政権の復帰が確実となったのである。

 タリバンの電撃的な「勝利」の誘因となったのは、本年9月までに駐アフガン米軍を一方的に撤退させるという、バイデン大統領が4月に下した決断であった。勝利を確信したタリバンは翌5月に攻勢を本格化させ、8月中旬には全土の大半を支配下におさめた。タリバン包囲網が首都カブールに迫るなか、8月15日にアシュラフ・ガニ大統領が国外に逃れると、20年にわたって国際社会が支援してきた民主政権は事実上崩壊した。

 本編は、論座で5月に掲載された拙著「なぜタリバンは復活したのか~米軍撤退に揺れるアフガニスタン①」の続編である。前編では、長年にわたるアフガン紛争を終結させたボン和平合意の背景と、タリバンが復活した原因を考察してみた。続編となる本編ではまず、なぜ兵力や装備で上回る政府軍がタリバンに圧倒されたのか、その原因と和平プロセスとの関係を探ってみる。そのうえで、女性差別などの人権侵害やアフガン発の国際テロの懸念など、今や現実となったタリバンの「勝利」が、アフガン国民や世界にもたらしかねない深刻な影響を検証してみたい。

カブールのアフガニスタン大統領府を掌握したタリバンの戦闘員=2021年8月15日、AP

民族・宗派を超えた国民軍の創設に失敗

 タリバンはカブール政府への攻勢を本格化して以来、次々と全国34州の州都を制圧するなど、兵力や装備で上回る政府軍を圧倒し続けた。国際社会に支援され兵力30万人を誇るアフガン政府軍はなぜ、寡兵であるタリバンの掃討はおろか、小規模なゲリラ攻勢にさえ耐えられなかったのだろうか。

 アフガン国軍が機能しなかった最大の原因は、カブール政府や国際社会が、民族や宗派を超えた国民軍の創設に失敗したことにある。

 国民を守る精強な軍隊の育成と、国民を代表する民主国家の樹立は、どちらが欠けても成り立たない表裏一体の関係にある。ところが5月の前編で指摘したとおり、ボン和平合意の当初に米国が国際治安支援部隊(ISAF)の全国展開への協力を拒んだため、国際社会は和平合意の前提である全国的な治安の回復と安定を果たせなかった。結果としてカブール政府は、タリバンの影響が残る東部や南部で十分に選挙を実施できず、民族や宗派を超えたすべてのアフガン国民による近代国民国家の礎を築けなかったのである。

 全国的な治安の安定と民主化の浸透を果たせぬまま、国際社会は国軍や警察など、アフガン新政府の治安関連組織の再編と訓練に着手した。

 最初に国軍の再編を担当したのはイギリスであった。ISAF所属の英国部隊は、部族間のバランスを考慮しつつ、一個大隊に相当する約600人の兵卒と将校の候補者を各地から募集して、3カ月の訓練を実施した。訓練を終えた部隊は、タジク族出身のファヒム国防相が率いる国軍に編入され、大統領官邸など首都の要所の警備を任された。

 その後、米軍がイギリスから任務を引き継ぎ、フランスなど他の国連加盟国と共に国軍の再編と訓練を支援した。

 米軍は2002年、ボン和平プロセスの実施を支援する国連に対して、総勢8万人規模のアフガン国軍を再建するための青写真を提示した。しかしその内容は、武器の使用法や部隊の運用など、軍人としての最低限の基礎訓練にとどまり、その場しのぎの観を否めなかった。

 その後、国軍は兵力30万人規模まで成長して、ヘリコプター、装甲車や暗視スコープなどの最新武器も供与された。しかし米軍の計画の中には、新政府を支えるためにどのような任務と機能を有する国軍を育てるかといった、和平プロセスと一体化した包括的な思考は見当たらなかった。このためアフガン国軍は、タリバン政権崩壊後に残った唯一の武装勢力である、タジク人部隊の強い影響下に置かれたままであった。

 タジク人勢力に偏った国軍編成は、新政権の行く末に暗い影を落とした。

 国軍編成の当初から、タジク族中心の組織や運用に反発する、パシュトゥン族など他民族の兵士の脱走が相次いだ。民族や宗派によって線引きされる軍閥時代の党派的な意識から抜け出せない国軍では、武器の横流しに加えて、兵員の給料の遅配や天引きが横行したといわれる。いきおい、部隊の統率や兵員の士気は低迷したままであった。

戦意も統制もなかったアフガン国軍

 このため、アフガン国軍は軍としての統率を欠き、米軍への依存から脱却できなかった。航空支援、情報収集や補給など,

広範囲の米軍の支援なしに、アフガン国軍は主要な軍事作戦を遂行する能力を持てなかったのである。

 米軍の完全撤退が決定すると、独り立ちできない国軍はたちまち、トヨタ製の小型トラック、旧式のカラシュニコフ銃や携帯式ロケットランチャー(RPG)など、初歩的なゲリラ戦の装備しか持たない10万人足らずのタリバンに圧倒されるようになった。なかには迫りくるタリバン兵の姿を見ただけで敗走する部隊も現れ、新政府の国軍はほとんど戦火を交えないまま、次々と州都を失っていった。

 戦意も統制もない国軍が、戦意旺盛なタリバンに対抗できないのは自明の理であった。国際社会は最新の装備を持った兵力30万人の国軍という「器」をつくりこそすれ、民族や宗派を超えて新国家のために命を賭して戦う気概と覚悟という、国民軍としての「魂」を入れることに失敗したのである。

 アフガン国軍を育てた米国であったが、タリバンとの戦闘の最終段階では冷淡な姿勢に終始した。バイデン大統領はカブールの陥落が迫った8月14日に、「アフガン国軍が自国を守れない、もしくは守る意思がないのであれば、米軍が今後5~10年の間居続けても意味がない」と言い放ち、機能不全に陥った国軍を突き放した。

アフガニスタンの首都カブールで8月14日、治安部隊の監視台などを視察したガニ大統領(左)とムハンマディ国防相代行=2021年8月14日、アフガン大統領府のツイッターから

ボン和平合意の理念と相いれないタリバンの教義

 タリバンの「勝利」は、ボン和平合意が目指した民主国家の終わりを意味するのだろうか? 極端なイスラム原理主義という本質が変わらない限り、タリバン政権下のアフガニスタンの未来は明るいとは言えない。

 国連が主導したボン和平合意は、9.11対米テロの3カ月後の2001年12月に調印された。和平合意の目的は、「アフガニスタンにおける悲劇的な紛争を終焉させ、同国における国民和解、平和の永続、安定および人権の尊重を促進する」ことである。

 このため和平合意は「イスラム、民主主義、多様性、社会正義の原則に基づく、国民自身の政治の将来を自由に決定する権利」を承認したうえで、「(アフガン国民の)広い合意に基づく、女性の代表問題に敏感で多民族的な、完全に国民を代表する政府の樹立」を宣言したのである。

 近代国民国家の樹立を目指すボン和平合意の理念は、預言者マホメットが生きた7世紀のイスラムへの目指す、タリバン運動の復古的な教義とは相いれない。

宗教が支配した中世に逆戻りか

 タリバンは1994年に、パキスタンのアフガン難民キャンプで結成された。1988年のソ連軍撤退後も骨肉の権力闘争を繰り広げるムジャヒディン(聖戦の戦士)に見切りをつけた青年たちが、「イスラム教神学生(タリバン)」と呼ばれる集団を結成して、祖国に「真のイスラム教徒による政府」を打ち立てるべく立ち上がったのである。

 タリバンは、敵対するムジャヒディン各派を「腐敗したイスラム教徒」と決め付ける一方で、自らを「真のイスラム教徒」と称して、支配地の住民の支持を得ていった。タリバンが自らの正統性を証明するため、コーランやハディースの極端な解釈に基づいたイスラム法シャリーアを厳格に施行したのはこのためである。

 そんなタリバン政権が復活すると、アフガン社会は宗教が支配した中世に引き戻され、20年余りにわたって積み上げられた人権擁護と民主化の土台は消え去ってしまうかもしれない。タリバンが樹立を目指す「イスラム首長国」では、宗教が唯一絶対の社会規範と見なされるので、多様性を重んじる社会に不可欠な、民主的な選挙や人権を容認する余地はほとんど残されていない。

 以下に、人権侵害、女性差別やアフガン発の国際テロなど、タリバン政権下で懸念される諸問題を個別に検証したい。

タリバン政権下で懸念される諸問題

 国民の基本的人権は蹂躙されないか

 タリバンは恐怖政治を復活させ、国民の基本的人権を蹂躙(じゅうりん)して、アフガニスタンを中世の暗黒時代に引き戻すのだろうか?

 バイデン大統領は米軍の撤退を宣言する演説の中で、撤退の目的は出口の見えない「米国史上最長の戦争」に幕を引くという、自国の都合による見切り発車であることを隠さなかった。彼は、「我々は国家を建設するためにアフガニスタンに行ったのではない。自分たちの未来と国の運営方法を決めるのは、アフガン人だけの権利であり責任だ」と言い切り、タリバンの復活を事実上容認したのである。

 しかし、タリバンによる人権侵害に対する、国際社会の懸念は深い。

 タリバンは結成当時から、彼らの解釈によるイスラム法の厳格な適用を行ってきた。例えばタリバンは、犯罪者に対して野蛮ともいえる残酷な刑罰を科した。窃盗の初犯の場合、犯人の左手首が切断され、再犯の場合は、残った右手首も切り落されるのである。

 このためタリバンの占領地では、犯罪は著しく減少して、治安はたちまち回復した。長引く戦乱に苦しむ住民は当初、タリバンの恐怖政治を歓迎したのである。

 しかし、アフガン国民のタリバンへの支持は長続きしなかった。タリバンの前近代的ともいえる苛烈な統治が日常生活の隅々まで浸透し始めると、住民の間で徐々に不満が高まっていった。「目には目を」式の前近代的な恐怖政治は、形ばかりの治安の回復をもたらしたものの、現代世界の普遍的な価値や人間性を否定する「墓場の平和」としか言いようのないものであった。

 タリバンが科した日常生活の制約は、音楽の禁止、テレビや映画の禁止、人物を映す写真の禁止、凧揚げの禁止、男性の髭剃りの禁止、ゲームの禁止、サッカーの禁止、など数えればきりがない。

 タリバンの圧政の中でも深刻なものは、シーア派イスラム教徒に対する弾圧であった。タリバンの教義によると、シーア派はイスラム教から逸脱する「背教者(apostate)」であり、異教徒よりも悪質とされた。

 国連は1998年に、シーア派教徒が多いハザラ少数派民族のタリバンによる弾圧を未然に防ぐために、ハザラ族の居住地帯であるアフガン中央部のバーミアン周辺に人権状態の監視を目的とする連絡員を配備した。しかし、タリバンの攻勢によりバーミアンが陥落すると、タリバン兵士は虐殺や性的暴行など、シーア派住民の組織的な迫害をためらわなかった。

 ハザラ族は伝統的に女性の社会進出に寛容で、国連代表団が訪問すると女性のTVクルーがにこやかに出迎えるのが常であった。しかしパーミアン陥落後に、隣国のイランに命からがら逃げ込んだTVクルーとテヘランで再会すると、何が彼女たちの身に降りかかったのか、形相が一変しており、タリバンによる虐待の深刻さを思い知らされることになった。

極端な女性差別政策は再開されないか

17日、アフガニスタンの有力テレビ「トロ」の番組に出る女性キャスター。イスラム主義勢力タリバンが首都を占拠した翌日の16日は、画面から女性キャスターの姿が消えていた=2021年8月17日、同テレビの公式ツイッターから

 タリバンによる人権侵害の中でも最も懸念されるのは、女性に対する周到で徹底した差別政策の再開である。

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