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「親ガチャ」「国ガチャ」「性別ガチャ」……この不平等社会でできること

藏重優姫 韓国舞踊講師、仁荷工業専門大学語学教養学科助教授

 最近気になること。

 いろいろなことが、シレ~っと、個人的問題、自己責任のように報道されている。貧困、障がい、人種等々、数ある社会問題を個人責任問題に置き換えることは、不平等を正当化することに等しい。

 「もっと頑張ればよかったんだよ」「勉強しなかったからでしょ」と片づけるのは、単純すぎる。スタート地点が異なれば、努力の量が同じでも、到達点は異なるのだから。時代はどんどん能力主義に走り、富める者は富むシステムになっているようだ。

 内閣が代わるたび、横田めぐみさんのお母さん、早紀江さんが早急な拉致問題の解決を内閣に要求する。そして新しい内閣は、お決まりの「最重要課題」と豪語する。総理大臣との面会もその都度行われるが、単なる政治的パフォーマンスにしか見えない。面会を実現しなければならない相手は北朝鮮なのに。

拉致被害者家族との面会で、横田早紀江さん(手前)の話を聞く岸田文雄首相=2021年10月18日、首相官邸拉致被害者家族の横田早紀江さんの話を聞く岸田文雄首相=2021年10月18日、首相官邸

 繰り返されるこのやり取りを見るたびに、いたたまれなくなる。被害者の方が、どんどん老いていくのを見ると、旧植民地者や在日コリアンの戦後補償問題を見ているようで「政府って、もしかして、当事者が死ぬのを待ってる!?」という考えさえ浮かんでくる。

 世間も、なんか他人事のように報道している。私が偶然見た横田早紀江さんの報道はこう締めくくられていた。

 「なかなか進展しない拉致問題ですが、そんな日々の中で早紀江さんに一つ嬉しいことがありました。めぐみさんが育てていたサボテンがずっと花をつけていなかったのに、今年、花を咲かせたのです。早紀江さんの闘いは続きます……(完)」

 なんだかな~。本当にこれでいいの!? 早紀江さんにとっては、花が咲いたことは本当に嬉しいことだったのかもしれない。でも、我々にとっては「早紀江さん、花が咲いてよかったね」「お気の毒だな~、でもいいことあってよかったよね」みたいな印象で終わってはいけないのだ。これで終わってしまうと、早紀江さんの個人的問題のようで、結局は自己責任になってしまう。

 誰が原稿を書いているのか知らないが、報道局や記者・編集者自体が、拉致問題をすでに自分とは関係ない個人の次元で捉えているのではないか。報道番組なのに、まるでブログのようだ。個人的問題ではない。自己責任でもない。社会全体の問題として、人々に訴えかけるコメントが必要なのだ。

報道が印象付ける「個人的問題」

 名古屋入管の施設で亡くなったスリランカ人のウィシュマさんを巡る問題もなんかひっかかる。現在、末の妹さんだけが日本に残って闘っておられるのだが、ウィシュマさんが亡くなるまでの映像が公開された後、また締めくくりのコメントが「……ウィシュマさんの妹、ポールニマさんはウィシュマさんが亡くなった真の原因が分かるまで帰りたくないと訴えます……(完)」

 また、妹さんがどうのこうので終わってしまった。もちろん、帰りたくないのは事実なんだろうけど、そのコメントが印象付けるのは個人的問題なんだよ! この歯がゆい気持ちになっているのは私だけだろうか。

 簡単なことだ。「私たちに何ができるのでしょうか」「私たちは何をしなければならないのでしょうか」と言えばいいだけ。もっと社会に突っ込んだ、胸にガツンと響くようなコメントじゃないと、人は皆、他人事として受け止めてしまう。私たちがこの社会を変えられるはずなのに、その「印象」は遥か遠いところにある。

 落ち着きを見せている新型コロナに関しても、今こそ皆が振り返る時だ。防疫対策が結局、個人的次元に終始していた。感染すると、「病院に行けない、検査してくれない、自宅で死ぬ」ということを覚悟しなければならないし、それは結局「自分でなんとかしろ」という意味だ。この間、私も韓国で自宅隔離を経験した。でも韓国では、「病院に行けない、検査してくれない、自宅で死ぬ」は、考える必要のないことであった。

 コロナ禍は格差社会を浮き彫りにした。リモートで仕事をできるのは一握りで、満員電車に乗らないといけない、業種によっては感染覚悟で働かないといけない、さらには、感染覚悟でもいいから仕事に行きたいと切迫した人もいるだろう。

 韓国でも、農業や土木建築などの仕事をしている外国人から集団感染がちらほら出ているという報道があった。集団で生活せざるを得ない労働条件が問題で、貧しければ貧しいほど、感染リスクが高くなるという図式だ。農業や土木、清掃、介護等、社会的に評価されにくい職業が、人間の生活には最も必要不可欠な職業であるということを、私たちはちゃんと認識し、賃金などの条件を改善すべきだ。

多くの塾が入居するビルの廊下は、成績を上げることに定評がある「スター塾講師」たちのポスターで埋め尽くされていた=2018年11月、ソウル多くの塾が入居するビルの廊下には、成績を上げることに定評がある「スター塾講師」たちのポスターが貼られていた=韓国・ソウル

 悲しいかな、韓国はすごい能力主義だ。高学歴が出世の最有力手段であり、また、最近では学力より、金銭的に裕福なことが成功だと捉えられている。高学歴が得られないのなら、株式で上昇してやるという人や、とりあえず公務員になるという人も多い。注目すべきは、能力主義がこれほど浸透すると、不平等や格差が、いとも簡単に正当化されてしまうという事実だ。「君が勉強を頑張らなかったからだよ。なぜ、そんなことも知らなかったの? 遅れてるよ。方向性を見誤ったね。もっと勉強しな。貧しかったからだね。仕方ないよ」

 こう考える人は今一度考えてみてほしい。

 日本で生まれたのも運。衣食住に困らない家庭で生まれたのも運。今、病気にかかっていないことも運。民族紛争や内戦が勃発する地域では、コロナどころではないし、ワクチンにしてもこれから議論されようとしている。地球上のどこで生まれるか、どんな家庭に生まれるかは、本人の責任の範疇ではなく、運なのだ。

人生は「ガチャ」であふれているのか……

 最近、「親ガチャ」という言葉を知った。親を選べないことを皮肉っている。そう、我々は「国ガチャ」「性別ガチャ」「健康ガチャ」……キリがないほど人生は「ガチャ」であふれているのかもしれない。つまり、この世はもともと不平等である、というところから議論を始め、そして、この不平等をどうにか是正することができるから、人間は素晴らしいと考えるべきだ。

JS14/Shutterstock.comJS14/Shutterstock.com

 コロナ禍で皆が感じた格差社会。これをどうするかは、有権者の1票にかかっている。だが、日本の議員内閣制(間接選挙)は、政治というものを遠く感じさせてしまう。一方で韓国の若者は、もう少し1票の「強さ」を知っている。自分の1票で大統領さえ選べる、という直接選挙だ。

 例えば、前回は、「共に民主党」のムン・ジェインに投票したが、不動産をはじめとする経済政策が気に入らないから、今度は反対勢力の「国民の力」に入れるという若者がいる。気に入らなければ、政治家を降ろそうとする。いや、降ろすことができると知っている。日本で、政治は自分たちの手にあると考える若者はどれほどいるだろう。

 半面、韓国は新たな問題も抱える。降ろせるからこそ、フェイクニュースや、事件自体をでっち上げ、大物政治家、官僚までも降ろしてしまうことがある。これもまた恐ろしい事実だが。

 日本も韓国も似ている。根本的に資源の乏しい小さな領土で民の努力でなんとか先進国に発展した。だが、先進国や富裕層は、貧しい人たちに富を分配し、不平等を改善してこそ、民主主義が保たれるということを、もっと自覚せねばならない。青少年の自殺率が高いのも日本と韓国は似ている。これは、能力主義に走り、どんな問題も自己責任とする風潮が蔓延している証拠だ。

 貧しい人がいるのは、社会の責任であり、その社会は自分たちの1票で作れるという自覚が必要だと思う。巷では民主主義や政治を語らなくなって久しいが、コロナ禍のような有事を経験した今こそ政治を語るチャンスなのだ。