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ウクライナ侵攻が生んだ人権と民主主義への思わぬ追い風~権威主義国ロシアの誤算

国際社会で着実に共有されてきた人権理念の力を軽視したロシアの“オウンゴール”

筒井清輝 スタンフォード大学社会学部教授・東京財団政策研究所研究主幹

 2021年9月2日、私の勤務先であるスタンフォード大学を、ウクライナのゼレンスキー大統領が訪れた。ワシントンでバイデン大統領と会談した後、カルフォルニア州まで足を伸ばしたのだ。

スタンフォード大学で講演したゼレンスキー大統領

 コロナの影響で、多くのイベントがまだ、ウェビナーでおこなれていた時期。厳しい入場制限があった中でのリアルの講演であったが、ゼレンスキー大統領を目の前にしたことは、今から考えれば得難い経験であった。

 その1カ月ほど前の7月29日には、ベラルーシでルカシェンコ大統領の対抗候補として選挙戦を戦い、選挙での大統領側の不正を訴えているスヴァトラーナ・ツィハノウスカヤ氏もスタンフォードを訪れ、さらに限られた人数の専門家との対話に臨んだ。

 この地域の専門家でない私には、彼らの話の細かいニュアンスがすべて理解できたわけではないが、アメリカの支援を強く要請していたことと、ロシアについては慎重に言葉を選んで話している様子が印象に残った。

会見で話すウクライナのゼレンスキー大統領=2022年4月23日、キーウ

ロシアにプレッシャーをかけ、有事に備える外交

 振り返ってみると、ロシアのウクライナ侵略から遡ること半年ほどのこの時期に彼らが訪米していたことは、それなりの意味を持っていたことがわかる。

 ロシアにとって大事な二つの隣国のリーダーたちがホワイトハウスでバイデン大統領と会い、その足で、駐ロ大使時代にプーチン大統領と事あるごとに対立したマイク・マクフォール氏が所長を務めるスタンフォード大学フリーマンスポグリ国際研究所を訪れる。アメリカにとっては、ロシアにプレッシャーをかけ、有事に備える外交であり、ロシアにとっては極めて目障りな行動であっただろう。

 もちろん外交安全保障はより大きな枠組みと利害関係の中で動くもので、今回のウクライナ侵略はロシアの、あるいはプーチン大統領の、様々なフラストレーションの暴発であり、アメリカとてこのような暴挙を予想していたということではない。しかし、力による現状変更を想定したシミュレーションのようなものは常に行われており、ゼレンスキー大統領との関係強化もこの枠内で行われていたことであろう。

 侵略開始以降の武器や情報提供の成功も、こうした下準備があってこそ可能だったのである。

ロシアのウクライナへの軍事侵攻に関する「論座」の記事を特集「ウクライナ侵攻」にまとめています。本記事とあわせてぜひ、お読みください>>>

「民主主義対権威主義」の図式が激変

 民主主義国家の団結によって権威主義勢力の拡張を防ぐというバイデン政権の努力は、ロシアの暴挙によって予想もしなかった追い風を受けている。

 トランプ政権のアメリカ・ファースト外交から方向転換し、「アメリカ・イズ・バック」と勇ましく叫んでいたバイデン大統領であったが、2021年8月のアフガニスタン撤退をめぐる混乱以降、バイデン外交は多くの批判にさらされてきた。米国、英国、オーストラリア3カ国の安全保障枠組みである「AUKUS」の結成(2021年9月)はフランスを怒らせ、民主主義サミット(2021年12月)という新しい試みは、招かれなかった東南アジア諸国などに疎外感を抱かせ、対立を深めたという批判を受けた。

 コロナ禍では、権威主義勢力よりも民主主義勢力の方が大きな打撃を受けたという言説が広まった。さらに、アメリカ国内の分断は収まらず、トランプ支持派による議会襲撃事件に関する説明責任も果たされないままで、民主主義の先行きには大きな暗雲が立ち込めていた。

 こうした民主主義勢力の弱体化の中で、2月24日にロシアの侵略が始まり、「民主主義対権威主義」の勢力図は激変する。

ホワイトハウスで演説するバイデン米大統領=2022年4月11日、ワシントン、ランハム裕子撮影

息を吹き返したリベラル志向勢力

 当初は、力だけがものをいう19世紀の世界に戻るとか、これまで築き上げてきた国際秩序が音を立てて崩れる、と言った悲観的な言説が躍り、人権や民主主義などは力の前にはまったく無力な理想であるというような絶望感が広がった。しかし、現実には、ゼレンスキー大統領を中心に団結して戦ったウクライナの人々のおかげで、権威主義国家が思い描くような、軍事大国が近隣国を思うように蹂躙(じゅうりん)するような世界への道のりには一定のブレーキがかかった。

 それどころか侵略開始以降、リベラルな国際秩序を志向する勢力は息を吹き返し、権威主義国家との対抗への備えが強まった。この2カ月でNATOの結束は数カ月前からは考えられないレベルに達し、フィンランドやスウェーデンの加盟も目前に迫っている。ヨーロッパでは、「ロシアとベラルーシとそれ以外」という線引きがはっきりし、ハンガリーやセルビアなど親ロ的な国家もあるとはいえ、リベラル勢力の結束がかなり強まった。

 一方、アジアでは、中国の台湾に向かう野心は簡単には変わらないだろうが、国際社会のウクライナへの強い支持を見て、中国も攻撃的な戦略を再考せざるを得ない状況に置かれている。アジアでの「民主主義対権威主義」の戦いでキャスティングボートを握る国々の中には、インドやベトナムのようにロシアへの批判を控える国もあるが、これは中国と対抗するためにロシアから輸入する軍備が必要な国々であることには留意する必要がある。

 また、韓国では新大統領がアメリカ、そして日本寄りに大きく外交をシフトしようとしている。これらのスウィング・ステイツをリベラル勢力の側に確実に引き込んでいくことが、リベラル志向勢力側のこれからの大きな課題となる。

総会の権限強化が国連改革の論点に

 さらに国連では、ロシアによる拒否権のために機能不全を批判される安全保障理事会にかわって、加盟国すべてが平等に一票を持つ総会でロシアへの非難決議が二度採択され、ロシアを人権理事会から追放する決定もされた。総会での決議にこれだけ注目が集まり、その投票でどの国が賛成し、どの国が棄権・反対したかが細かく分析されるような状況は近年、見られないものであった。

 こうした総会の権限の強化は、今後の国連改革で大きな鍵を握る論点になるだろう。ただし、「一国一票」の総会では、常にリベラル勢力に有利というわけではない。今回はロシアの愚行が対象であったために、有利な状況があったが、例えばアメリカのイラク侵攻のような議題であれば、アメリカが非難の対象になる決議が通ることもあり得る点は、理解しておかなければならない。

米ニューヨークの国連本部

注目を集める国際刑事裁判所の存在

 ロシアの戦争犯罪に対しては、国際刑事裁判所(ICC)での捜査が始まっており、ジェノサイドかどうかは別にして、プーチン大統領への逮捕状が出る可能性はある。

 実際にプーチン大統領やその他の責任者をICCで裁判にかけて処罰するのは、ロシアで政権交代が起こらない限り無理であろう。しかし、逮捕状が出るだけで、プーチン大統領が訪れることができる国の数は相当限られる。

 例えばプーチン大統領が日本を訪れれば、ICCの加盟国である日本には彼を逮捕して裁判所へ引き渡す義務があり、この可能性を考えて彼は日本を訪れることはなくなるであろう。さらに、時効がないICCで訴追されることになれば、逮捕の可能性は生涯、プーチン大統領について回ることになる。

 数年前にはアフリカの国だけをターゲットにするという批判を浴び、加盟国の大量脱退も危惧されたICCだが、ここに来てその存在が再び注目を集めている。

3月16日のビデオ会議で、ウクライナ侵攻を正当化しつつ、西側を非難するロシアのプーチン大統領=ロシア国営ノーボスチ通信が動画サイト「RUTUBE」で配信した動画から

国際社会で共有される人権理念

 ロシアの侵略行為と数々の人権侵害に対する国際社会の反応から見えてくるのは、拙著『人権と国家―理念の力と国際政治の現実』(岩波新書)で詳述した、人権理念の力である。

『人権と国家―理念の力と国際政治の現実』(岩波新書)
 国際政治の苛酷な現実に翻弄されながらも、人権理念は確実、そして着実に国際社会で共有されるようになっている。そして、被害者には立ち上がる力を、国際社会には傍観者とならず何らかの行動を起こす力を与える役割を果たしている。

 こうした人権理念の力を軽視したロシアは、結果として、ブレグジットやトランピズムで疲弊していたリベラル勢力に大きな活力を与え、中国の台頭で影響力を広げていた権威主義勢力の勢いをそぐこととなった。まさしく、ロシアの“オウンゴール”と言っていい。

 ただし、この結果を見て、アメリカがロシアによる侵略を望んでいたのではないかとか、アメリカが煽(あお)ったのではないか、などという陰謀論的な言説に与することがあってはならない。このような発想は、アメリカの外交を過大評価するものである。

 今回の侵略に際してのウクライナ及び国際社会の反応は、アメリカ、ロシア、中国、など多くの国と専門家の想定を超えるものだ。そもそも、アフガニスタンであのような失態を演じたアメリカが、ウクライナのケースではロシアもウクライナも巧妙に操って今の事態をもたらしたなどというのは、アメリカの外交力の買いかぶりもいいところである。

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