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PTAを「魔界」「義務」「苦行」から解放し、再び「民主主義の学校」にするために 

なぜ野党が勝てないのか、そのヒントもPTAにある―政治学者・岡田憲治インタビュー

石川智也 朝日新聞記者

 多くの経験者が「魔界」「苦行」「罰ゲーム」などとルサンチマンを込めて評してきた「PTA」――。

 保護者と地域と学校とが有機的に協力し合う団体として構想され、遠い昔には「民主主義の学校」などともてはやされたこともあったが、少なからずの実態は、ノルマと会合の義務と負担でがんじがらめ、誰もが怖気を震って忌避し、役員のなり手もなく、「そもそも必要か?」との声すら挙がる存在だ。

 そんななか、政治学者として民主主義理論を研究してきた専修大教授の岡田憲治さん(59)が、東京都世田谷区の区立小学校で3年間PTA会長を務めた体験を『政治学者、PTA会長になる』(毎日新聞出版)にまとめてこのほど上梓した。

 リベラルの立場から、「正しい政治」に拘泥し支持を広げられない野党の痛いところを突いてきた岡田さんだが、PTA活動を通じて、あらためて「なぜリベラルは敗け続けるのか」を自戒とともに省みたという。

 PTAを語ることは「自治」を問い直すことであり、とりもなおさず地べたから民主主義を考察し直すことだと語る岡田さんに、「魔界」体験とデモクラシーの交差点について聞いた。

3年間PTA会長を務めた東京都世田谷区の弦巻小学校で3年間PTA会長を務めた東京都世田谷区の弦巻小学校で

〈おかだ・けんじ〉 1962年東京生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。専修大学法学部教授。専攻は政治学。とりわけデモクラシーの社会的諸条件に関心を持ち、言語、地域自治、スポーツ文化などにも言及している。主著に『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)、『ええ、政治ですが、それが何か?』(明石書店)、『働く大人の教養課程』(実務教育出版)、『言葉がたりないとサルになる』(亜紀書房)等。

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PTAを語ることは「自治」を語ること

 ――PTAの体験記やPTA改革のルポルタージュはこれまで多く世に出ていますし、曲がり角のPTAを制度論や教育学の視点から論じた研究書もたくさんあります。今回、自らの経験をまとめようと思った理由は?

 PTAって、地域によってまったくあり方が異なるし、数百メートル離れた学校で起きていることすら、まるで異国の話のようだったりして、どれひとつとして同じPTAはないんです。

 僕の住む地域の小学校の保護者はほとんどがホワイトカラーで、女性も7割近くがフルタイムのオフィス・ワーカーです。そう聞くだけでもう「あ、うちの地域とは無関係の話ね」と思う人もいるかもしれませんが、そういう「違い」にだけ注目してしまうと、いくら読んで共感したり溜飲を下げたりということがあったにしても、どんな体験記も「特殊事例です」で終わってしまう。

 各学校のPTAのあり方やシステムは身体で言えば骨格や筋肉のようなもので、その姿はそれぞれ異なりますが、大元が細胞でできていることは変わらない。僕が書きたかったのはこの「細胞」の話。つまり個々の人々と、その各人が現代社会を生きるために備えているはずの「自治への意志」のことです。

 「自治への意志」とは、「自分(たち)の生活や人生に直接関わることは、できれば自分で判断し決めたい」という欲望のこと。逆に言えば、それを実現する生活の技法が「自治」ということです。

 PTA活動にはそもそも成功などなく、基本的にはうまくいかないことばかりです。でも、救いのない、絶望的な体験談を書いても仕方ない。

 3年間のPTAでの日常と暮らしのなかで身体的に得たデータを、専門である政治学の分析枠組に照らして再考し、ままならなかった事態の原因や構造を引き出し、あらためて生活の言葉に翻訳し直して、社会に提供する。それならば、自分が体験を報告する意味もあるんじゃないか、と。

 先回りして言ってしまえば、自分が学んできた民主主義の理論や先達の高説は、PTAの現場では何の役にも立ちませんでした。まあ、学問は現実を後追いするものですから、当たり前ですけど。というわけで、今回の本は、僕の挫折と失敗の通信簿みたいなものです。

なぜPTA本を書くのは男ばかりなのか?

 ――以前から気になっていたことですが、いわゆる「PTA本」は男性著者によるものが多く、圧倒的に男のディスクールでした。岡田さん自身、30年以上ぶりの男性会長だったそうですが、日本全国のPTAでこれまでほとんど女性が役員を務めてきた歴史があるにもかかわらず、なぜ女性によるPTA体験記は少ないのか。

 あくまで大雑把に一般化すると、男性の書くものは「これだけ改革できた」という成功体験記が多い。一方で女性が書くものは、ボロボロの傷だらけになったといった怨嗟や、涙なしには読めないネガティブな体験を綴ったものが多いような気がします。

 PTAを辞めたとしてもその地域で生活し続けるわけですから、誰を登場させどんなことをどんな筆致で書くか、だれだって気を遣う。その度合いがおそらく、女性の方が圧倒的に強い。だから簡単に体験を書けないのでしょう。男性はそういうところに神経が行き渡っていないのです。「男なのにやった」という無意識なのかもしれません。

 例えばちょっと教育委員会に問い合わせする場合も、一回り年上で男性で大学教授という肩書を持つ僕と、専業主婦の女性の場合とでは、先方の対応が明らかに違ったりする。残念ですが、まだまだそういう男女の不均衡に根ざしたモードが残っている。それによくよく注意しないと、男の書くものは、自分のアドバンテージに無自覚で、手柄自慢の臭いがするようなものになってしまいがちです。

 PTAについて語ることは、明らかにジェンダーの問題をはらんでいます。そして、どういう語り口で何をテーマにし、メッセージを届けたい対象をどこに絞るか、そういうことを頭の中で考え選ぶ時点で、すでに「政治」が始まっているんです。

 ――PTA活動のなかで、母親たちが「意見を言いたいけど、言えない」と繰り返すことに、「大人だろ!」と怒鳴りたくなったそうですね。

 これもジェンダーが絡む話ですが、平日の活動に集まれる人を前提にしてしまえば、どうしても専業ママに占められることになり、同質性が高まって、同調圧力や忖度の温床になります。子育てが女性に押しつけられてきた結果、PTA組織も多様性がなかったわけです。そこで、役員会の開催日を平日から月1回の土曜登校日の午前中に変え、子連れもOKにし、オフィスワーカーが参加しやすいようにしました。異質な者たちが増えた方が「ちょっと言える」になるのです。

 父親たちが役員に増えると、空気も変わりました。父親がPTAに関わることが少なかったのは、必ずしも男たちの参加意識が希薄だったのではなく、参加の機会や条件が整っていなかったという面も大きい。前例踏襲で変えてこなかった慣習を少し変えるだけで、組織を軟化させ、新鮮な血液を送り込むことができるかもしれないということです。

「正論」をぶって人心が離れていった

 ――しかしながら、その「前例踏襲」を打破するのに、相当に苦労したようで……。

 前任のPTA会長からは、「引き継ぎに5時間かかる」と分厚い資料を渡されました。会長として参加すべしと言われた打ち合わせや会合は、なんと年間100件以上。役員の仕事も、とにかく「なんでこんなことを疑いもせずに続けてきたんだ?」というものがたくさんありました。

 運動会での来賓へのお茶出しや、町内会長らをもてなす夜の宴席、ベルマークの収集、古紙回収……。みんな「スリム化したい」「無駄を省きたい」と言うんです。でも個別の案件を検討し始めると、「これまでやってきたことをなるべく変えたくない」という強い縛りの意識からか、有形無形の抵抗が起こる。

 活動を断捨離できない要因のひとつが、いわゆる「ポイント制」です。保護者のPTA活動への貢献度を測るシステムとして、採用しているPTAも多いです。役員のほかクラス委員、行事の係など、仕事の軽重に応じて配点が決められ、小学校6年間で集めるべきポイント数が定められている。言うまでもなく、スリム化の大きな障害です。

 例えば古紙回収なんて、回収ステーションの手配に手間もかかるし、いまや新聞購読している家庭も減るなかで、真っ先に廃止すべき、歴史的使命を終えた活動です。でも、「その通りなんだけど、ポイントがついている以上はやめられない」と反論がある。しかも、集まる古紙が少ないから、自分で新聞購読を始めるなんて言い出す人も。なんじゃそりゃ? どんなに負担になっていても、ポイントがあるからやめられないって? 言葉の真の意味における「本末転倒」でしょう!

 ……と、この議論をしている時の僕の役員たちへの不信感は相当なものでした。ポイント制がどれだけPTA活動を歪めているか、「あなたたち」がいかに一番大切な本筋を外しているか、不機嫌にくどくどと説明しました。そして、

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