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働く現場の差別に奮起して女性議員に~上り調子の民主党と小沢一郎さんの思い

「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【10】

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

 元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が国会議員や地方議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと全国で奮闘してきました。平成から令和にいたる間、女性などの多様な視点は政治にどれだけ反映されるようになったのか。スクールを主宰する円さんが、自らの政治人生、スクール生の活動などをもとに考える「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」。今回はその第10話です。(論座編集部)
※「連載・ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」の記事は「ここ」からお読みいただけます。

国会津田会初期のメンバー。左から中西、森山、久保田、円、石田、赤松

「国会津田会」のこと

 1993年に誕生した細川護煕内閣には女性閣僚が三人いた。そのうち二人は、私の母校津田塾の先輩だ。一人は、久保田真苗経済企画庁長官。もう一人は赤松良子文部大臣。二人とも労働省出身。久保田さんは労働省の後、社会党から参院選に出馬し、参議院議員を二期つとめた。

 赤松さんは労働省で男女雇用機会均等法を手がけたことで知られているし、今は女性議員を増やすための「WIN WIN」や「クオータ制を推進する会(略称Qの会)」の代表として活躍されている。

 1993年7月に繰り上げ当選で参院議員になった私は、まっさきに元官房長官森山眞弓さんから蘭の花をお祝いにいただき、祝賀会をしましょうと言われた。細川護熙内閣ができ、38年続いた自民党政権が下野することになったのに、細川内閣を支える日本新党の私を祝ってくれるなんて、「さすが津田塾の先輩。太っ腹!」と思ったものだ。ちょうど初当選した石田美栄衆議院議員もいる。二人の大臣もいるし、津田塾のみんなで集まることになった。

 総勢6名。卒業順でいうと、中西珠子参議院議員、久保田真苗経企庁長官、森山眞弓元官房長官、赤松良子文部大臣、石田美栄衆議院議員、そして私である。

 あなたが一番若いのだから事務局長をやりなさい、と森山さんに言われ、以来、「国会津田会」と名づけられたその会は10数年続いた。その後、会員は3人増え、うち一人は私の後輩だったのだが、あなたがそのままやりなさいという森山さんの一言で、世話役はかわらなかった。

女性・労働問題に携わる津田塾出身者の系譜

 中西さん、久保田さんは英学塾、森山さん、赤松さんは専門学校卒だったから、その後、久保田さんは慶應義塾大学を、森山、赤松さんは東大を卒業した。中西さんは英学塾を卒業し、戦後はGHQ(連合国最高司令官総司令部)に勤め、その後ILO(国際労働機関)で仕事をした人だ。美濃部達吉に師事した有名な法学者中島重を父に持ち、勉強好きな少女だったが、「あの頃、女性を受け入れる大学は少なかったのよ」と第一回の国会津田会でおっしゃっていた。

 久保田さんも「国立大学も女子をとるのは一部だったし」と。森山さんは東大が初めて女子を取った時に受験した一人だ。「就職だって大変だった、官庁なんて、労働省しか、女性をとらなかったんだから」。

 そうか。だから、久保田さんも森山さんも赤松さんも労働省なんだ。そう言えば、労働省の初代婦人少年局長は山川菊栄さん、二代目は藤田たきさん。いずれも津田塾出身だ。女性問題も労働問題も、津田塾にはそれに携わる熱い列が延々と続いているのだと、あらためて思った。

 山川菊栄の「女二代の記」や「武家の女性」などは20代で読んでいたが、津田塾の先輩とは知らなかった。また、私が学生の時の学長だった藤田たき先生が、1950年に参院選の全国区に緑風会公認で出て落選していたことも知らなかった。なにより驚いたのは、神近市子(1888〜1981)が先輩だということだった。

神近市子と藤井裕久大蔵大臣

 議員になってすぐ、藤井裕久大蔵大臣に声をかけられたことがあった。

「円さん、あなた、津田塾の出身だろ? 私は神近さんに縁があってね」
「えっ、神近って神近市子のことですか」
「そうだよ、あなたの先輩だよ」
「えっー、知らなかった、津田の?」
「そうだよ、国会議員の先輩でもあるんだよ」

 まったく知らなかった。そういえば、教科書か何かには、「葉山日陰茶屋事件」といって、大杉栄を刺したこと、妻と伊藤野枝との四角関係?のことが載っていたっけ。

 国会議員としても、ジャーナリストとしても、先輩だと知って驚いた。藤井大臣は、大蔵省の役人だった頃、神近議員にしょっちゅうレクに来ていたらしい。

 急いで、彼女の伝記を読んだ。平塚らいちょうの『青鞜』に参加し、それで津田梅子先生に叱られ、青森の女学校に赴任させられることになったとか。青鞜は危険視されていて、津田の校風にはあわなかったのかしら、と思った。

 藤井大臣は「円さんも、あまり津田の校風にあわなかったんじゃないの」と笑っていたが、何かにつけ、近現代史のことや財政のことなど教えてくださり、「女性のための政治スクール」の25年の懇親会にも来て、挨拶をしてくださった。

 残念ながら藤井さんは先月、鬼籍に入られた。心からご冥福をお祈りしたい。

衆院予算委員会で第2次補正予算案の提案理由を説明する藤井裕久蔵相。右は羽田孜副総理・外相と話す細川護煕首相=1993年12月1日

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「政治スクール」で講義をしてくれた森山眞弓さん

 それはともかく、苦労もせずに大学に行かせてもらい、芝居にばかり明け暮れて、のほほんと生きてきた私だが、津田には素晴らしい先輩たちがいて、こうした先輩たちのおかげで、今の私たちがあることにいまさらながら気づかされた思いであった。

 この日の会は、「女性の地位はまだまだよ。特に政治の世界がひどすぎる」という話で盛り上がり、その年の2月から始めていた「女性のための政治スクール」はいい試みだと言ってもらえた。そして、森山眞弓さんはすぐに講師として高輪の日本新党本部に来て、女性議員の存在意義について話してくれた。

赤松良子さんの奮闘で男女雇用機会均等法が成立

 労働省婦人少年局長として、大奮闘の末に赤松良子さんが、男女雇用機会均等法を作り上げたのは戦後40年がたった1985年のことである。

 1980年に女子差別撤廃条約に署名していたが、この均等法を成立させて初めて、条約の批准が可能になる。大反対する経団連などの説得に必死だった赤松さんだが、連合などの女性たちからは「これなら、ない方がまし」と文句を言われるほど、妥協に妥協を重ね、赤松さん自身、あるべき姿と思い描いていたものとは違うという無念さがあったが、ともかくも成立した。

 改正して、より良いものにすればいいわけで、実際、1997年の改正で、当初は採用・昇進等での男女の機会均等は事業主の努力義務になっていたものを、差別的取り扱いは禁止されることになった。

森山真弓前文部大臣(右)を見送る赤松良子新文部大臣。憲政史上初となる「女性から女性へ」の新旧大臣の事務引き継ぎとなった。2人とも津田塾から東京大学へ進み、同じ労働省(現:厚生労働省)に入省した=1993年8月10日、東京都千代田区霞が関3丁目

教師から島根県職員へ……白石恵子さんの苦難の道

 島根県議4期目の白石(はくいし)恵子さんが就職したのは、均等法成立以前の時代であった。幼少期に両親が離婚し、母親一人に育てられた。母は手に職があるわけではなく、収入も低かったから、ずっと彼女は大学には行けないと思っていたし、早く就職して、母を助けたいと思い、中学3年の進学指導では、商業高校に行って技術を身につけたいと希望した。

 ところが担任は、成績の良い彼女の将来を思い、高卒で就職するにしても進学高を出た方が有利だと説得。白石さんは松江市の進学高に進む。「全員、大学に行くのが当たり前って感じだったものだから」と、奨学金を得て公立大学に入学。

 「何があっても一人で生涯食べていける仕事に就く」と、公務員か教師をめざす。静岡の中高一貫校の国語教師になり、1年後、母親をよびよせる段取りをしていたら、祖母が病気になり、母は島根を離れられなくなった。

 彼女も島根に戻ることにしたが、教職は簡単には見つからない。県職員を募集していたので、とりあえず臨時職員となった。仕事は庶務係。「女性は一生、その係のまま!」と聞いてガーンとなった。職員の給与と出張旅費の計算だけを定年まで?! その後、正職員にチャレンジする。

 「やっと正職員になれたけど、その時の募集だって、男子は100名なのに、女子は若干名だったのよ」と白石さんは憤慨する。正職員にはなったが、庶務係のまま。それでもチャンスがあれば掴みたいと思い、必死で仕事に励み、勉強もし、毎年、他の部署への異動願いを繰り返した。が、10年間、庶務係のまま、異動させてはもらえなかった。

白石恵子さん

女性議員ゼロから一気に2人になった島根県議会

 その間に結婚、子どもも産まれたが、なぜ女性だけが仕事を固定されるのか、心中、怒りがふつふつと湧いていた。組合に入り、女性部で「職域拡大運動」にのめりこむ。そしてようやく、本当にようやく福祉部門に配属され、DV被害や児童虐待問題に向き合うことになる。

 10年間の庶務係で銀行の女性たちと仲良くなった。給与が今のような振り込み制ではなく現金払いで、しょっちゅう銀行に出かけていたからだ。窓口の女性で同じ銀行の男性と結婚すると、家からとても通えない支店に女性は“飛ばされた”という話を何度も聞いた。つまり、辞めろということなのだ。

 白石さんは、DV被害者も自分も銀行員もみな、根っこが同じ問題を抱えていると気づく。ケースワーカーとして女性たちからさまざまな相談を受け、自治労の副委員長としても女性の地位向上に取り組んでいる頃、島根県では女性の県議を誕生させようという気運が盛り上がる。女性県議ゼロという不名誉な状況だったからだ。しかし、出てもらいたい人を探し、説得を繰り返しても、出馬してもいいという女性はいない。

 結局、白石さんに白羽の矢が立つ。彼女は断り続けた。女性が必要というのはわかる。しかし、安定した職と収入を捨てるような賭けはできなかった。そのとき、松江市の女性職員である角ともこさんが出馬しそうだという話が伝わる。彼女が勝ってくれればいい。2人はとても無理だと思った。

 ところが、連日、まわりの女性たちが説得にくる。2人の女性が出ることで逆に盛り上がって、2人とも勝てるとも言われた。「議員になったら、もっと解決できることが増えるのと違う?」という“くどき文句”が決め手となり、半年後、彼女は出馬を決意。女性2人が共に当選した。

 女性議員ゼロから一挙に2人となり、島根県は名誉を挽回することができた。

当選以来、白石恵子議員(右)と角ともこさんは県庁前で議会報告を続けている

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2007年の都知事選の顚末

 同時に島根県議に当選し、今は同じ会派で活動している白石さんと角さんだが、2人が当選できたのは、2009年に政権を取った民主党の公認候補として2007年の統一地方選に出たからともいえる。07年は民主党が上り調子の時だったのだ。どんな選挙もそうだが、党の勢いや選挙区など、運不運はつきものなのだ。

 07年といえば、小沢一郎さんが代表、私は民主党の副代表であり、東京都連の会長でもあって、東京の市区町村議員を統一地方選で大幅に増やすことに奔走していた。7月にある都知事選に出す候補者探しでは、前年から鳥越信太郎さんら何人にも会って説得にあたっていた頃だ。

 知事選の候補者がなかなか決まらない中、石井一さんや北沢俊美さんらが、「菅直人さんを出すのがいい。絶対勝てる」と言い出した。

 「俺を国政から追い出そうという陰謀に、都連会長の円さんまでが加担するのか」と菅さんの怒ること怒ること。「えっ陰謀なんですか」という私に、「決まってるじゃないか、俺が邪魔なんだよ」

 男の人たちの権力争いにはまきこまれたくないが、候補者は早く決めなくてはならない。都連の中には、都連会長の足を引っ張ろうというのはゾロゾロいる。党のために早く知事候補を決めたいなどとは誰も思わず、むしろ決められなかったら、会長を辞めさせようと手ぐすね引いて待っていた。

 「円さん、なんとかしなきゃ」と菅さんも本気になり、二人で考えたのが浅野史郎元宮城県知事。電話してみるとまんざらでもなさそう。

 浅野さんとは、彼が厚生省の課長のときに、女性問題の政策に力を貸してほしいと、「ニコニコ離婚講座」を主宰していた私に連絡があり、3年くらい一緒に仕事をしたことがあった。その縁で、彼が宮城県知事選に出る時、細川総理に話して公認を出してもらい、応援にいった経緯がある。以来、友達付き合いをしていて、都知事選に出ない? と軽く言ったら、まわりが出てくれといわないと無理だよという。

 それを聞いた菅さんは、「よし、まわりから声がでるようにすればいいんだな」。そして、もう決まりだと言った。

 しかし、都知事選で浅野さんは石原慎太郎さんに100万票以上の差をつけられて惨敗。菅さんが代表の時は、評論家の樋口恵子さんに出てもらったのだが、これも石原さんに負けた。石原さんは強い。そして、都知事選は難しい。(「政治スクール生が地方選で続々と当選!~『定置網方式』で参院議員3期目へ」参照)

東京都知事選への出馬を表明した前宮城県知事の浅野史郎氏と握手をする民主党の小沢一郎代表=2007年3月7日、東京・永田町

突如浮上しあっという間に消えた「大連立構想」

 すぐに参院選があり、東京選挙区は鈴木寛さんと、大河原雅子さんの2人を出馬させており、都連会長としては2人共に勝たせなければならない。1位大河原、3位鈴木で、なんとか都知事選の雪辱を果たせたのだった。

 当時、私的には母が倒れて入院、妹も乳がんが再発して参院選の真っ只中に死去するというきつい時期であった。自分自身の選挙ではなかったが、都連会長として連日応援にかけまわり、妹にはほとんど付き添ってやれなかった。家族の面倒もみず、仕事に明け暮れる男たちを長年、雑誌やテレビ等で批判しておきながら、まさに私自身が猛烈仕事人間であった。

 参院選後の9月、安倍晋三総理が突然辞任。福田康夫総理が誕生する。そして自民党と民主党との「大連立構想」が浮上する。

 自民党と民主党というより、福田総理と小沢代表の間で話し合ったことといった方がいいだろうか。双方とも、党内で進めていたことではないから、トップ同士の取り決めにみんな仰天した。公けに会議にもかけられないまま、この話はあっという間に、民主党内の一部の人の猛反発で消えてしまう。

赤坂で聞いた小沢一郎さんの本音

 民主党が政権を取った後、いや、政権をあっという間に失った後、赤坂で二人で飲んだ私に、小沢さんがしみじみ言ったことがある。

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