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ウクライナ難民を支える市民たち~定住旅行家が見たVUCA時代のポルトガル(前編)

ERIKO モデル・定住旅行家

シェルター:聖職学校だったフンダオ移住者センター(エリコ撮影)

 新型コロナウイルスによるパンデミックの終息はだまだ見通せないものの、多くの国々で人びとの行動や移動は活発化し、日々変化する状況に対応しながらも、「ニューノーマル(新しい日常)」の生活を獲得しつつある。

 筆者は、自らのライフワークとしている「定住生活」(世界の各地でローカルの家庭に一定期間滞在し、生活を共にしながら、その地の暮らしや文化を配信する)を行うため、今年の5月からおよそ1カ月半、南欧のポルトガルに滞在した。

 先行きを見通せない「VUCA(ブーカ)」の時代と呼ばれる現代。それを痛感させたパンデミックに続き、世界を揺るがせているロシア・ウクライナ戦争。その影響は、少なからず平和なポルトガルにも及んでいた。

 当地の様子を2回にわけてレポートする。

※連載「定住旅行家・ERIKOの目」のこれまでの記事は「こちら」からお読みください。

Dmitrijs Kaminskis/shutterstock.com

大航海時代の「雄」はいま……

 ポルトガルは、日本から見ると極西に位置する南ヨーロッパの国だ。90年代半ばから財政が悪化。ユーロ圏内で経済状況が厳しい国々の頭文字をとって呼ばれたPIIGS(ピーグス)の一国になった。その一方で、かつて大航海時代に世界各地へ進出した歴史を、500年以上経った今でもポルトガルのイメージに重ねる人は多い。

 筆者が今回、定住旅行先としてポルトガルを選んだのは、かつての大国の現在の姿を知りたかったことと、また日本に初めて“西洋”の文物をもたらした歴史的なつながりに対する興味によるところが大きかった。

ポルトガル街並み:ニューノーマルな生活がはじまっていたポルトガル(エリコ撮影)

受け入れ家族がなかなか見つからなかったワケ

 定住旅行では現地の家庭に一定期間滞在するため、まずは筆者が滞在することを受け入れてくれる家族を見つけなければならない。ポルトガルは、これまで滞在した50カ国以上のなかで、受け入れに最も難色を示された国となった。どうしてか。

 個人的に感じた理由の一つは、ポルトガル人の国民気質である。表向きは親切でオープンながらも、プライベートまで踏み込まれるとなると、閉鎖的な態度を示す傾向が強い。信頼関係を結ぶまでに、ある程度の時間が必要になるようだ。

 さらにもう一つの理由が、他者に対してオープンマインドなポルトガル人の多くは、ロシア・ウクライナ戦争の影響により、ウクライナからの難民をすでに家庭で受け入れていたという事情がある。

 今年2月に勃発したロシア・ウクライナ戦争で、750万人以上の難民がウクライナを脱出、3月にはウクライナ人口のおよそ4分の1が避難した。これは第2次世界大戦後、最大の難民危機であろう。EU諸国はすべてウクライナ人難民を受け入れ、滞在、労働、学習の権利を与える指令を発動した。

 ウクライナから4000キロ以上離れたポルトガルにも、ウクライナからの難民たちがやってきている。ポルトガル政府は今年の5月までに約3万7000人の難民を受け入れた。その数は過去5年間受け入れてきた移民の5倍にのぼる。(参照

ウクライナ難民を受け入れるさくらんぼの産地

フンダオ市:ポルトガル中部の中規模都市(エリコ撮影)

 難航しながらも、たくさんの方々の協力によってなんとか受け入れ先の家庭が見つかり、5月下旬からポルトガルでの生活がスタート。南西部の孤島マデイラ島、中部のベイラバイシャ州、首都のリスボンの3カ所を拠点に定住旅行を行った。

 スペインと国境を接する、中部地方のカステロ・ブランコ県内カステロノーボ村に滞在中、同県のフンダオ市でウクライナ難民や支援活動を行う人びとと出会う機会があった。

 フンダオ市は人口約3万人の中都市で、この地方の商業、サービス、産業の中心地である。セセレ川が流れるコヴァ・デ・ベイラ地方の谷に位置しており、肥沃な土地なので農業が盛んで、さくらんぼの生産量がポルトガル一の地域でもある。

 このフンダオ市には「Centro para as Migrações do Fundão」(フンダオ移住者センター)、通称シェルターと呼ばれる施設があり、現在はウクライナからの難民たちの受け入れを積極的に行なっている。連日35度以上の猛暑が続く6月上旬、この施設を訪問させてもらった。

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