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女は一生仕事を!  母の願いを胸に進む女性議員たち~政権交代に近づく民主党は

「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【11】

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

 元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと全国各地で奮闘してきました。平成から令和にかけて、女性などの多様な視点は政治にどれだけ反映されるようになったのか。スクールを主宰する円さんが、自らの政治人生、スクール生の活動などをもとに考える「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」。今回はその第11話です。(論座編集部)
※「連載・ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」の記事は「ここ」からお読みいただけます。

1983年頃、大阪の朝日放送に出演した北村春江さんと筆者(円より子)

全国初の女性市長・北村春江さんのこと

 1991年に62歳で全国初の女性市長となった北村春江さんの死がつい最近(2022年7月)、報じられた。彼女とは私がまだ参議院議員になる前、関西のテレビ局で、離婚や女性の生き方について対談し、以来、その活躍ぶりに注目してきた。

 1995年の阪神淡路大震災では芦屋市も大きな被害を受け、彼女の自宅も全壊、夫君は腰の骨を折る大けがで入院。しかし市長である彼女はほとんど見舞にも行かずに2カ月間、市庁舎に泊りこみ、芦屋の復活の陣頭指揮をとりつづけた。

 大学の法学部を出た彼女は、大阪市の外郭団体に勤めたが、そこでの主な仕事はなんとお茶くみ。一念発起して司法試験に挑み、弁護士となった。

 北村さんの大学卒業は1952年だから、戦争が終ってまもない頃で、そもそも女性が大学に進学するのもまれだし、働く場もなかなかない時代だった。

 こうした状態はしばらく続いた。前回の第10話「働く現場の差別に奮起して女性議員に~上り調子の民主党と小沢一郎さんの思い」に登場した白石(はくいし)恵子さん(島根県議)は、1972年に大学を卒業したが、やはり働く場は少なかった。70年代になっても依然、働く現場での女性差別は続いていたことになる。

 さらに、80年代後半に大学を出た女性たちも、男女雇用機会均等法が1985年に成立したにもかかわらず、昇進や昇給で男女の差が広がるという現実に直面した。多くの女性たちが、不満とモヤモヤ感を抱きながら働き続けるのか、あまりにも馬鹿らしくて妊娠出産で仕事をやめるのか、という状況が長く続いた。

とにかく早く選択制夫婦別姓を~民部佳代さん

 埼玉県ふじみ野市議の民部佳代さんもそんな一人だった。

 彼女は、岡山の大学を出て、大手の電機企業に15年勤めていたリケジョ(理系女子)。キャリアを築くには、故郷の岡山では無理と思い、親を説得して、東京の企業に就職したのだ。

 女は大学に行かないほうがいいという土地柄。家に経済的な余裕もなく、「自宅から通える公立大学なら……」とやっと大学進学をさせてくれた親が、就職のためによくぞ東京に行かせてくれたと思う。母親の力が大きかった。

 「自分の人生を生きられなかった母は、私の幼い頃から、一生必ず仕事をもっていなさいと言っていて、私の東京行きも後押ししてくれた」

 民部さんの母親は、北村春江・元芦屋市長や赤松良子・元文部大臣らの少し下の世代かもしれない。女性であるがゆえに思うように生きられなかった経験から、自分の人生の分まで娘たちに生きてもらおうと、背中を押したのだだろう。

 だが、現実は厳しかった。「均等法後の世代で、総合職だったんですよ。1989(平成元)年に就職し、バリバリ働いていたのに10年も経つと、男性と昇給でも昇進でもどんどん差がつく。何だ、こりゃと……」

 やってられないと思った彼女は、企業での自分の将来を見切り、政治を変えたいと2001年、女性のための政治スクールに参加し、同じような思いの女性たちに出会った。そして、住んでいた大井町の町議に挑戦。ふじみ野市に合併する前の町議選で当選を果たす。

 大井町議1期目に市町村合併があり、ふじみ野市議となった民部さんだが、2007年に民主党から県議選にひっぱり出されて落選。4年の浪人を経て2011年、再びふじみ野市議となり、現在4期目だ。DV相談や保育園の休日保育、LGBTのパートナーシップ制度の導入など次々と実現している。

 最初の選挙の時、妊娠4カ月だった。直前に妊娠がわかったが、出馬をやめる気はさらさらなかった。夫婦別姓を待ち望み、事実婚を実践する彼女は、娘を家裁で胎児認知という方法で夫の戸籍に入れたという。こうしたことを議員になってからもしばらくはまわりに言えなかった。

 「時代が追いついてなかったという理由と、やっと経験を積み、力を得たことで言えるようになった」と言う彼女は、とにかく早く選択制夫婦別姓を実現したいと思っている。実は、女性のための政治スクールに入校した理由の一つもそれ。1996年に私が、1997年には民主党が、議員立法で法律を出していたからである。

国際女性デーによせてジェンダー平等を訴える民部佳代さん

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差別のない社会をつくりたい~藤本眞利子さん

 2006年以来、和歌山県議5期を務めている藤本眞利子さんもまた、母親に背中を押された娘の一人だ。

 家は貧乏で、母親は毎日内職をしていた。口ぐせのように言っていたのが、「女は仕事していかないかん」だった。

 藤本さんは大学を出ると小学校の教師になった。部落差別が色濃く残っている地域で、学校には部落といわれる地域の子どもたちもいた。部落差別の実態を知った彼女の心に、言われなき差別への怒りがふつふつと湧いた。

 同和教育、人権教育に熱心にとりくんだ。さらに、子どもたち全体の教育環境を良くしたいと努力した。教師を20年つとめた時、市議選への誘いがあった。日教組の女性部長だった先輩が体調を崩し、藤本さんに出馬してほしいと言ってきた。

 県の職員だった夫は「やりたいようにやりなさい」と言ってくれた。母は「決めたのならしょうがない」。子どもは中3で受験直前。「お互いがんばろう」と言いあった。

 日教組と解放同盟の支部、地元の自治会が援助してくれて当選。市議2期目の途中の2006年、県議会の補欠選挙に出馬して当選。

 彼女は、女性ということで、一度も損をしたことはないと言う。いつも「女性やから頑張って!」と応援してくれる人が多かった。初めての市議選も「安定している仕事をやめて、出馬するなんてすごい。彼女を落としたらあかん」とみんなが頑張ってくれた。男性の政治家の多い和歌山では、女性というだけで覚えてもらいやすいという利点もあった。

 「差別のない社会をつくりたい、公教育をよくしたいという強い意志や思いがあれば、お金なんかなくてもやれる。コツコツ一軒一軒まわって支持を得てきた。お金はいらんけど体力はいるなあ」 と笑う。

 児童虐待防止条例もつくった。障害者雇用にも実績を残している。女性のための政治スクールには、関西空港から朝一番の飛行機で参加し、スクール生仲間である島根県議の白石恵子さん、角ともこさんらとはよく連絡をとりあう。今は和歌山でも女性の議員を増やしたいと活動中だ。(白石恵子さん、角ともこさんについては、前回「働く現場の差別に奮起して女性議員に~上り調子の民主党と小沢一郎さんの思い」参照)

 和歌山県議会の定数は42人。うち男性が39人。女性は3人と1割にも満たない。がんばれ!藤本さん。

甲子園で和歌山市立高校の応援をする藤本眞利子さん。

「小沢に殺されるぞ!」と言った羽田孜さん

 藤本さんが和歌山県議補選に挑戦した2006年、民主党は揺れていた。解党の噂まで流れていた。

 2月に、「堀江メール問題」で前原誠司代表が辞任。後継の代表を決める選挙が4月に行われ、菅直人さんと小沢一郎さんの一騎打ちとなった。

 代表選はいつも悩ましい。私は細川(護熙)党を自認していたので、どのグループにも入っていなかったが、04年の参院選で、菅さんやパートナーの伸子さんに東京西部の「三多摩」をずっと一緒にまわってもらうなど強力に支援してもらったので、そのお礼にいった。それが「国のかたち研究会」という菅さんのグループで、何となくそのグループの仲間ということになっていた。

 ところが、細川さんも私のブレーンも、今度は小沢さんに投票しろという。私は迷っていた。

 投票日の前日、江田五月さんがやってきた。「菅が推薦人も集められず苦労している。憲政記念館で11時半から会合を開くんだけど、全然集まらない」と暗い顔をしている。私は昔から、こういうのにすごく弱い。12時から友人とランチの約束があるが、5分くらいなら顔を出せると言ってしまった。もちろん、今回は菅さんに投票すると決めた。

 憲政記念館に着くと、カメラとマイクを向けられた。テレ朝の「報道ステーション」だ。「菅さんの推薦人になるんですか」。ここにくれば、菅さん支持ととられて当然だ。私は答えた。

 「小沢さんも菅さんも民主党にとって大事な政治家で、私はどちらが代表になられても民主党がしっかり国民の信頼を得られるよう立て直してくれると思っています。だからこそ私は、小沢さん優勢と決まっているのだから、菅さんにも生き残ってほしいと思って来ました」と答えた。

 その夜のテレビでは、後半だけがコメントとして放映された。放映されたとたん、電話がいくつもかかってきた。みな小沢派の議員だった。

 「なんてことを言ってくれた。あなたはわかってないけど、影響力を持ってるんだよ。日本新党系はみんな菅に寝返るぞ」。すべてそういう趣旨の非難だった。

 翌日、国会で羽田孜・元総理に会うと「円さん、えらいこと言っちゃったね。小沢に殺されるぞ!」と言われた。小沢さんとの間で、激突やさまざまなことを経験した羽田さんならではの言葉だったのだろう。

「トロイカ体制」で勢いを取り戻した民主党

 赤坂プリンスホテルの別館で行われた代表選は、「小沢119、菅72」という結果だった。菅さんは代表代行となり、鳩山さんが幹事長。民主党の「トロイカ体制」がスタートする。

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