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ウクライナ難民を支える市民たち~定住旅行家が見たVUCA時代のポルトガル(後編)

ERIKO モデル・定住旅行家

エントランス:ギャラリー兼ブルーノ氏の自宅(エリコ撮影)

 昨日13日に公開した「定住旅行家が見たVUCA時代のポルトガル~ウクライナ戦争と市民(前編)」に引き続き、定住旅行者である筆者が見た「VUCA(ブーカ)」の時代のポルトガルについて書く。

※連載「定住旅行家・ERIKOの目」のこれまでの記事は「こちら」からお読みください。

ウクライナ難術支援のアート展示会

 フンダオ市内のアートギャラリーで2022年5月15日から、フンダオ出身ポルトガル人アーティストのブルーノ・ラモス氏主催の「TEMPLO DE AMOR EM TEMPOS DE GUERRA」(戦争の中にある愛の寺院)と題したアート作品展が数週間に渡り開催された。

 ウクライナ人とポルトガル人計14名のアーティストによる合同作品展示会で、その場で作品も購入できた。会場はブルーノ氏の自宅がギャラリーとして使用され、ベッドルームやトイレなどもアート作品の一部として活用されている。

ブルーノ氏がプロジェクトに取り組んだワケ

 ウクライナからの難民を支援するためにこのアート展示会を企画・運営したブルーノ氏は、開催に至った経緯について、自らが難民になった経験と共に語った。

 「僕は昔シリアに暮らしていたのですが、ある日、突然戦争が始まり、自分の家がなくなってしまったのです。平凡な日常を送っていましたから、何が起こったのか理解するのに時間がかかりました。普通の人間が突然難民になる。これは現代では、どこに暮らしていてもありえないことではありません。
 しかし、この特殊な経験や社会的立場は、それが実際に人生に起こった者にしか理解できないものであります。今回のアートプロジェクトは、ウクライナ人のアーティストと行っていますが、僕は彼らを難民というアイデンティティで括(くく)ったつもりはなく、特殊な経験を持つアーティストとして迎え入れました。支援というと社会的に弱い立場の人を助けるイメージが先行しますが、僕は彼らと同じアーティストという土壌でこの展示を開催したのです」

 ブルーノ氏はシリアで難民になったのち、故郷であるポルトガルのフンダオに戻った。人はさまざまなことを行うが、その大きな原動力の一つとなるのは、パーソナルな体験に基づく共感性なのではないかと、彼との会話で感じた。

 展覧会の開催中にはウクライナ映画なども上映され、ポルトガル人がウクライナという国を知る機会が多く提供されていた。

ブルーノ氏:自ら難民となった経験を持つ、展覧会の主催者ブルーノ氏(エリコ撮影)
アートギャラリー:風景や戦争などが多くの作品のテーマになっている(エリコ撮影)

ハルキウから避難したカリチェンコさん

 ベロニカ・カリチェンコさんは、ウクライナ北東部に位置するウクライナ第二の都市、ハルキウからポルトガルへやってきた難民の一人であり、ブルーノ氏主催のアート展に参加したアーティストでもある。

 人懐っこい笑顔で親しみのある彼女は、ロシア・ウクライナ戦争が始まる前まで、ハルキウの家具メーカーに勤務していた。3歳の息子が一人、旦那とは離婚している。彼女の両親も既に亡くなっており、シングルマザーとして子育てと仕事を両立させていた。

 今年の2月、彼女の日常は戦争が勃発したことで一変した。ロシア軍の攻撃が始まったのは認識していたが、まさか自分の住んでいる街までもが襲撃されるとは夢にも思っていなかったのだそうだ。はじめは避難する気などさらさらなかったという。

 しかし、ある日彼女の頭上を戦闘機が超えていったのをみて、現実的な怖さに襲われ、必要最低限の荷物と息子の手を握って、もう帰ることのないであろう家をあとにした。

 「ポーランドにあるキリスト教団体が無料で避難させてくれるというので、息子と二人でバスに乗り込みました。着いた先はポーランドでした。しかし、ポーランドの避難所はすでに人がいっぱい受け入れ先が見つからず、バスを乗り継いで、フランスへ行き、最終的に受け入れをしてくれることになったポルトガルまで移動しました」

 彼女はポルトガルという国のことはまるで知らなかったし、正直言って、来たくはなかったと呟(つぶや)いた。

カリチェンコさん:ウクライナから難民としてポルトガルへやってきたカリチェンコさんと息子(エリコ撮影)

ポルトガルで暮らすことを決意

 「ポルトガル人に接したことは今までありませんでしたから、彼らがどのような人たちなのか想像できませんでした。到着した後も言葉も通じないし、混乱や寂しさで、私や他の避難して来た人たちも、到着してから数日間は避難所から出ることもなく閉ざした空間で生活をしていました。
 私たちが、彼らやこの土地に心を開かない間も、フンダオに暮らす現地の人たちは、私たちを心配して様子を見に来て声をかけたり、食事や日用品などを持ってきてくれたりと献身的に接してくれました。何日も何日も変わらず助けようとしてくれる彼らの姿に私たちは心を開くことができたんです」

 故郷の家を奪われた彼女は、子どもの教育のことも考慮し、このままポルトガルで暮らすことを決意したという。ポルトガル語がまだ話せないため、言語を使わなくても仕事ができる、繊維工場に務めようと考えているのだそうだ。

 遠慮なくなんでも聞いてくださいと、全てのインタビューをロシア語で答えてくれたベロニカさん。筆者とベロニカさんの唯一の共通言語がロシア語であったことはなんとも皮肉な縁である。

作品:作品は直接購入することもできる(エリコ撮影)

難民を支えるポルトガル人の精神背景

 筆者が訪問したポルトガル中部の公的難民受け入れ施設以外にも、ポルトガルでは市民単位でそれぞれの家庭で難民を招き入れているケースも多い。

 文化背景が異なる人間を自分のプライベートな居住空間に住ませるのは、そう簡単なことではない。ましてや、言葉も通じないうえ、相手の精神状態も極めて不安的な状態である。そのような状況であるにも関わらず、難民たちを両手を広げて受け入れ、支援するポルトガル人の姿を見ると、ポルトガルが辿(たど)った過去の歴史が頭をかすめる。

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