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「反撃能力」保持に世論の容認!?~それでも上がらぬ岸田文雄内閣支持

国際環境の変化で変わる日本人の安全保障観。問題の核心は政治の質

田中秀征 元経企庁長官 福山大学客員教授

 ウクライナのゼレンスキー大統領は12月21日、電撃的に米国を訪問し、米連邦議会の上下両院合同会議で演説し「ウクライナは生きている」と力強く述べた。そのなかで、訪米直前にウクライナ東部のバフムートに立ち寄ったときの話をした。

 かつて数万人の住民がいたバフムートでは、今も激戦が続いているが、そこで命懸けで戦っている兵士からウクライナの国旗を渡されたという。米国の支援に対する感謝の気持ちを込めて託されたものだ。

 ゼレンスキー大統領はこの国旗をペロシ下院議長とハリス副大統領に手渡した。そしてその後の演説で、この戦争は、ウクライナだけではなく、欧州全体、さらに世界の民主主義を守る戦いであることを強調した。その通りだと思う。だからこそ、われわれはウクライナを支持し、支援を惜しまないのだ。

ビデオで「よい1日を」と語り、こぶしを握るウクライナのゼレンスキー大統領=ゼレンスキー氏のSNSから

ウクライナ侵攻が日本人の安保観に影響

 さて、今年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、われわれ日本人の安全保障観にもかつてない影響を与えている。

 12月17、18日に実施された朝日新聞の世論調査(電話)によると、岸田文雄内閣の支持率は31%と内閣発足以来の最低を記録した。前回の11月調査の支持率37%から6ポイントも下落している。不支持率は前回調査から6ポイント高い57%で、第2次以降の安倍晋三内閣、菅義偉内閣を通じて最高となった、

 その一方で、岸田政権が進めた安保関連3文書の改訂に明記された、相手の領域内を直接攻撃する「敵基地攻撃能力」(反撃能力)を自衛隊がもつことについては、「賛成」が56%で、「反対」38%を大きく上回った。また、岸田政権が決定した防衛費の拡大については、「賛成」46%、「反対」48%と拮抗する結果となった。

 近隣の大国の“凶悪さ”が目立つようになるにつれ、日本人の安全保障観はじわじわと変わり、ロシアのウクライナ侵攻によって、いよいよ自らの国をわれわれ自身で守る自衛の決意が強まったのだろう。なかでも、「反撃能力」の保有に賛成する人が、過半数の56%に達している意味は大きい。これは日本人が「タカ派」になったのではなく「現実派」になったのだと思う。

安保改定3文書の改訂決定の臨時閣議後、記者会見する岸田文雄首相=2022年12月16日、首相官邸

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憲法前文の一節に抱いていた違和感

 ところで私は、学生の頃から、日本国憲法の前文にある次の一節にちょっとした違和感を抱いていた。疑問と言ってもいい。

――平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 この一節は、これまでの憲法論議ではそれほど問題視されていないから、私の思い過ごしだろうと思ってきた。ところが今回、「反撃能力」をめぐる論争がかまびすしくなるなか、あらためて読んでみても、同じように感じる。

 要するに、日本人や日本国はともかく「諸国家や諸国民は平和を愛する」もので、したがってその「公正と信義」を信頼していれば、「われわれの安全と生存」を保持できるので、そう「決意した」という文脈になる。

 ただ、これでは他国の権力は信じられるが、自国の権力は信じられないということになりはしないか。もっと言えば、自国は悪いことをするかもしれないが、他国は悪いことをしないと想定しているように受け取られかねない。とすれば、あまりにもナイーブだ。むしろ、他国の権力はともあれ、自国の権力は変えられるはずだ。

日本国憲法の原本

はずれた米国の戦後の想定

 前文にあるこの一節には、日本国憲法が制定された当時の内外情勢が色濃く反映されている。とりわけ、憲法原案を起草した米国、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の情勢認識や展望によって規定されていると考えざるを得ない。

 そもそも、演説であれ、憲法であれ、原案の起草者の基本認識は、その後の修正を経てもあまり変わらないものだ。日本国憲法も1946年2月のGHQ原案が“地”になっていると言える。

 国際連合の常任理事国となった戦勝五大国のリーダーでもある米国は、第2次世界大戦の敵国であった日本やドイツなどの枢軸国を封じ込めることを第一義と考えるあまり、戦後世界の激動に対する明敏な洞察を欠いていたのではないか。その最たるものが、共産党が支配する中国の出現であろう。

 中国の蔣介石、米国のトルーマン大統領は、二人で日本を挟んで抑え込み、再軍国化を阻止することを最も重要な課題としたと言われる。確かに蔣介石率いる国民党軍は1947年3月に毛沢東の共産党軍の本拠地である延安を占領した。しかし、同年のうちに反撃にあい、東北・華北の大半を失った。そして49年10月には、毛沢東によって共産中国の建国が宣言された。

 米国が考えていた、中国を最強の同盟国として自由主義陣営の中核にするという想定ははずれ、米国の対日政策は大きく転換。48年1月のロイヤル米陸軍長官による「日本を極東における共産主義(全体主義)の防壁にする」という演説に至った。

日本の安全を守ったもの

 GHQが起草した憲法原案が、若干の修正を経て政府案になったのは46年の3月。この月の初めにはチャーチル(英前首相)が米国ミズーリ州で冷戦の開始を告げる「鉄のカーテン」演説をおこなっているが、戦後世界の展望についての日本国憲法の認識は、チャーチル演説以前の世界を前提にしている。ソ連も国連体制のなかで足並みをそろえるはず。中国の「国共内戦」は蔣介石の国民党の勝利に終わり、米中の二大自由主義国がアジアを支配できるという構図である。

 そうした基本認識の間違い、将来展望への楽観が、日本国憲法を起草した米国の認識の基礎にあるとすれば、日本が「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」していれば、安全と生存を保持できるとする楽観論も無理もない。

 だが、その後の世界はまったく違う動きを見せた。冷戦のもと、ソ連と米国の対立は激化し、中国は共産党が支配して自由主義陣営から離脱した。それでも戦後70年以上、日本が安全保障上の大きな危機に見舞われずにきたのは、米国の助力もさることながら、やはり近隣国との友好関係をなんとか維持することができたからだろう。

 周知のように、その均衡がここにきて大きく崩れつつある。

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