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岸田首相は長期の「経済計画」の策定を!~場当たりの政策転換が経済の劣化を招いた

田中秀征 元経企庁長官 福山大学客員教授

 報道によると、日本の名目GDP(国内総生産)が今年中にもドイツに抜かれ、世界3位から4位に落ちることが確実視されている(2月19日日経)。すでに2位の中国には大差をつけられていて、遠くない将来、インドやインドネシアなどの“人口大国”に抜かれることも視野に入っている。

 ところで、ドイツに抜かれることとインドに抜かれることでは意味が違う。ドイツは第2次世界大戦の敗戦国同士。戦後、西ドイツ時代の復興は早く、しばらくは日本の前を走っていたものの、いったんは失速して長く日本の後塵を拝していた。さらに、1990年の東西ドイツ統一によって、政治的、経済的な負担も加わった。2011年には福島第一原発事故を教訓にして、日本より先に“脱原発経済”に果敢に踏み込んでいる。

 そのドイツが再び日本を追い抜く事態を、日本は深刻に受け止めなければならない。ドイツだけではない。かつてわれわれが“老大国”とみなしていたイギリスやフランスも、今世紀に入って以降、勢いを取り戻し、日本を追い上げてきている。

日本経済の“峠”だった2000年

 日本経済の低迷について考えるとき、特に目立つのは平均賃金の停滞である。

 OECD(経済協力開発機構)の2020年の調査(物価水準を考慮した「購買力平価」ベース)によると、加盟35カ国中、日本は実に22位。1位のアメリカの763万円と比べて、339万円差の424万円にとどまっている(2021年10月20日朝日)。韓国にも2015年に抜かれ、38万円の差をつけられている。

 また、2000年に世界一位だった日本の労働生産性は、19年には26位に転落している(日本生産性本部)。生産性の向上なくして1人当たり所得の持続的な成長を実現することはあり得ない。

 こうした様々な経済指標の推移を観ると、日本がトップグループから脱落する兆しが見えたのは90年代末、そして今世紀に入ってからはその方向がさらに明確になったことが分かる。日本経済の“峠”は2000年と言っていいだろう。

第7回物価・賃金・生活総合対策本部であいさつする岸田文雄首相=2023年2月24日、首相官邸

日本経済はなぜ20年間停滞し続けたのか?

 この20年間、日本経済はなぜ停滞し続けたのか。

 バブル崩壊の後遺症、少子高齢化の進展による構造変化など、多くの要因があるであろうが、最大の問題は、われわれがその要因がどこにあるのか、本格的な検討に着手していない点にある。ドイツ、イギリス、フランスはなぜ再起、復調に向かっているのかという分析も必要だろう。

 白川方明・前日銀総裁は「日本経済の低成長の原因は価格の下落ではなく」、大事な課題は「潜在成長率の低下を食い止め、生産性上昇率を引き上げること」なのに、「このことを学ぶために20年以上もの随分長い時間を使ってしまった」と論じている(『東洋経済』1月21日号)。

 鳴り物入りの異次元金融緩和は一体、何をもたらしたのか。数多くの日本経済の劣化要因のなかでまず指摘できるのは、今世紀に入ってからの経済専門家の排他的な独走に見られる経済政策の決定過程の変化である。以下、具体的に見ていきたい。

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保守本流の政権から自民党本流の政権へ

 2000年は日本にとって文字通り歴史的な年であった。

 この年、今年と同じようにG7サミットが沖縄で開かれたが、それを主導した小渕恵三首相がサミット前に死去。前後して、経世会(田中角栄派の後継)の重鎮である竹下登、梶山静六、二階堂進の各氏が相次いで他界した。

 自民党内の武闘派かつ保守本流の巨大な派閥が柱を失うと、それと軌を一にするかのように、政策派、思想派とも言うべきもう一つの保守本流である宏池会が、加藤紘一氏が同年暮れに起こした“加藤の乱”によって空中分解の憂き目に遭う。代わって表舞台に立ったのが、森喜朗首相、小泉純一郎首相といった、岸信介、福田赳夫の両元首相を源流とする清和会の政権だった。

 ちなみに清和会を軸とする自民党政治の流れは、途中に民主党政権をはさんで、第2次以降の安倍晋三政権まで続いた。私はこの流れを、保守本流に対する「自民党本流」と呼んでいる(拙著『自民党本流と保守本流』に詳述した)。自民党綱領が岸、福田両氏の思想を軸に書かれたからだ。

経済の劣化をもたした制度的要因

 話を2000年に戻そう。

 この年、保守本流の流れが途絶えたのは、長年、政権を担当することによって政治の「構造汚職」が生じ、世論の支持を失ったためだと言っても良い。

 そして、保守本流政権の退場とともに忘れてならないのが、年が明けた2001年1月の中央省庁の再編統合、いわゆる“省庁再編”だった。これによって登場した“新しい霞が関”こそが、日本経済に劣化をもたらした制度的要因ではないかと、私は考えている。

 なかでも、経済企画庁が廃止され、「経済計画」が策定されなくなったことにより、政府が日本経済について権威のある「展望と指針」を示さなくなった弊害は大きい。なぜなら、それによって日本経済が海図なき航海を強いられ、漂流せざるを得なくなったからだ。

省庁のビルが立ち並ぶ霞が関の官庁街=東京都内、朝日新聞社ヘリから

安保の年に東大の駒場祭で見た光景

 私が「経済計画」なるものに初めて接したのは、池田勇人政権のもとで昭和35(1960)年末に閣議決定された「国民所得倍増計画」だ。まさに“60年安保”の年であった。

 当時、東大の学園祭である駒場祭では、寮の窓に「寮デコレーション」をして、一般に公開していた。その部屋に住む学生たちが人形などをつくって窓に展示し、自らの“主張”を世に問うたのである。

 寮委員長をしていた私はデコレーションの審査にあたったが、一番多かったテーマは政府が発表した所得倍増計画に関するものだった。900人近い学生たちが住む安保反対の砦(とりで)のような寮でも、政権の経済計画が肯定的に受け止められたのである。安保闘争とその挫折で、血生臭く暗い日々が続いた大学に、一気に明るさが戻った感じでもあった。モノクロ映画がカラーに変わったような感じであった。

 所得倍増計画は、日本を「政治の季節」から「経済の季節」へと転換させるものであった。時務を識る政治は時代の空気を一変させ、国民的協力を引き出すことができる、ものだと痛感した。ちなみにこの計画は、政府の公約を上回る成果を上げた。

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二つの経済計画に深く関与

 私はかつて政府の役職に二度就いている。二度とも自ら志願して経済企画庁で経済計画に深く関与した。

 一回目は1992年、宮沢喜一内閣で政務次官として、「生活大国五カ年計画」の策定に関与した。日本は経済大国にはなったが、所得が高くても資産が乏しい段階で、「フローからストックへ」の転換を促すため、「資産倍増政策」を掲げた。

 私はその経済計画のスローガンとして、「美しい環境と簡素な生活」を提案した。経済界への遠慮はあったが、宮沢首相はそれを採用した。

 この経済計画を策定するため、官・民・学・労・報道のプロ、合算して千人近い専門家が経済審議会に結集し、数十回の会議や部会で意見を交わした。私は公用で二度ほど欠席しただけで、そのほとんどに参加して真剣な議論を聴いた。

 二回目は1996年、橋本龍太郎内閣で長官として、

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