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科学的で同時に世の中的な「逆応用科学」の勧め

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

 社会・経済的な理由から、「象牙の塔」への圧力が増している。基礎研究の冬の時代、応用科学と教育へのシフト。そうまとめられよう。

 だが、日米の大学を見てきた筆者の目から見ると、「アブハチとらず」に終わる危惧がある。つまり継続性・一貫性を必要とする基礎研究(アブ)を犠牲にしつつ、実りある社会的成果(ハチ)にも至らないのではないか。ここでは自然〜社会科学にまたがる分野に的を絞って、基礎、応用研究と実社会の距離を測り直したい。

 人間科学が世の中の期待に十分応えられない、という時代が長く続いている。テロリスト対策、津波や原発の安全管理とパニック対策、振り込め詐欺などの心理犯罪や風評被害の対策、消費や投機行動の制御、など。これらには人間科学が力を発揮するはずだが、うまくいっていない。基礎科学的で、同時に世の中的であることは可能か。そういう問いが投げかけられている。本来、人間科学はそういう出自のはずなのだが。

 筆者の在職するカリフォルニア工科大学で、年に一度、認知神経科学領域の大学院受験生を口頭試問する。最近では1/3以上の学生が、神経科学で「トランスレーショナル科学」を目指したいと言う。

 トランスレーショナル科学とは、実用的なアプリケーションを目指す、学際的な応用科学のことだ。分子生物学の基礎研究を元に抗がん剤を開発するのは、その成功例と言える。ヒトゲノムの臨床応用もそうだ。 基盤技術を医薬品などの開発に応用するのも、広い意味ではこれに入る。米国国立衛生研究所(NIH)も、この方向を支援している。

 分子神経科学の臨床応用については、これは有効な方法論だ。しかし、ヒトの認知や社会行動を扱う心理学や認知神経科学では、あまりうまくいっていない。方法が限定されているという根本的な問題もある。だがより大きな悩みの種は、一歩ラボから外に出れば同じ個人でも行動がまるで違ってしまうという「文脈依存性」「複雑性」だ。

 さらに、実用科学のつもりでも、すぐに象牙の塔化してしまう。つまり研究者が世の中よりは先行論文に学んで、その欠陥をあげつらうような論文ばかり書く。結果、縮小再生産が進む。これは臨床心理学や、生体工学などでよく見られる問題だが、日本で特に顕著だ。

 大学制度の面でも、学際教育が喧伝された。が、創造的な人材を量産しているとは必ずしも言えない。個別分野の堅固な基礎無しに、創造的な結合は期待できない。

 トランスレーショナル科学の大きな特徴は、それが本質的に応用科学であることだ。これに対して、先の問題意識(基礎科学的で、同時に世の中的であることは可能か)へのひとつの答えとして、私が提唱したいのは「逆トランスレーショナル科学(Inverse Translational Sciences)」だ。

 このアプローチでは、ヒトの本性にかかわる問題意識を、先行研究ではなく実社会から学ぶ。それをラボに持ち込んで、あくまでも基礎科学の方法で解を出す。大きなメリットは、その出口=応用の道筋が自明であることだ。「世の中的であって、同時に基礎科学的である」ことは、かくして可能だと考える。

 たとえば、こういう研究がある。カリフォルニア大学の J. ファウラーらは、喫煙や肥満に及ぼすソーシャル・ネットワークの影響に興味を持った。実際過去30年ほどの間に、米国の喫煙率は大幅に下がった。友人や配偶者などの、またはインターネットを通じた社会関係は、これにどれほど貢献したか。それに答えるため、ネットワーク解析法を適用した。留意したいのは、この解析法そのものは、たとえば分子生物学にも適用できる、基礎的で数学的なものだという点だ。

 結果が興味深い。まず喫煙者が社会集団としてかたまっている。また友人の影響は、配偶者よりは小さいが、兄弟よりは大きい、など。

 一方肥満は逆に過去30年間で増え続けているが、これに対する社会関係の影響も、同じ手法で解析できる。それによれば、やはり肥満者も集まって集団で存在する。また血縁の親兄弟よりも、親しい友人の影響が大きい。近くに住んでいなくても親しければ影響があり、友人の友人のさらに友人にまで、影響が確認された。このあたりが計量的で、しかも常識を覆す結果と評価された。

 ちなみにファウラーは政治学者で、その点でも社会科学と自然科学の急接近を感じさせる 。他にも、「貧困が世代にまたがって再生産しがちなのは何故か? 」という問いに、 丸ごと答えようとした研究例もある(W.エヴァンスとM.シャンバーグ)。そこで用いられたのは、ストレスの生物学的マーカー計測と、認知心理学の記憶容量計測だった。

 また認知神経科学では、ラボ内の被験者の人工的な意思決定よりは、消費者の実際の購買行動を本質的な意思決定とみなす。それをラボでなるべく忠実に再現することが、方法論として定着しつつある。

 こういう逆転の発想は、もともと工学系とは相性がよく、いわゆるハードサイエンス(物理学や化学など)でも可能かも知れない。

 基礎科学を本筋で擁護しつつ、実社会の要請にも応える堅固な思想が、あり得るはずだ。

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