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脱原発をのみ込んだ小選挙区という罠

尾関章 科学ジャーナリスト

 これを、どう解釈すべきなのだろうか。

 脱原発の機運が人々の間に高まっているのに、17日に投開票があった総選挙では、そのことにほとんど触れなかった党が圧勝したという現実である。

 朝日新聞社が選挙前の12月初め、電話による世論調査で「原子力発電は、今後、どうしたらよいと思いますか」と聞いたところ、「徐々に減らしてやめる」が66%、「早くやめる」が18%で、広い意味の「脱原発」は84%を占めた。「使い続ける」は、わずか11%だった。

 一方、衆議院で単独過半数の294議席を得た自民党は、政権公約のエネルギー政策で「原子力に依存しなくてもよい経済・社会構造の確立を目指します」と言っているのみだ。自民党政権が2006年に「原子力立国」の旗を掲げ、科学技術基本計画でも「高速増殖炉サイクル技術」を国家基幹技術としていたことからみれば、「脱原発」の方向に舵を切ったと言えなくもない。

 だが、公約の後段で中長期のエネルギー政策について「遅くとも10年以内には将来にわたって持続可能な『電源構成のベストミックス』を確立します」と述べ、しかも「その判断に当たっては、原子力規制委員会が安全だと判断する新たな技術的対応が可能か否かを見極めることを基本にします」と書き添えている。どこまでも原子力の可能性を追い求める姿勢が見てとれるのである。原子力発電を「やめる」と言った84%の人たちとは隔たりがあると言えよう。

 原発をめぐる民意と選挙結果は、なぜ乖離したのか。

 もっともわかりやすい説明は、民主党政権への鉄槌論だろう。この3年間の民主党政権はあまりにもふがいなかった。いったん約束した政策がいつのまにかしぼんでいるという事例も、すぐ頭に浮かぶ。有権者は、原発問題への関心をひとまず棚上げにして最大野党を勝たせ、そのことにノーを突きつけた、というのである。

 有権者が投票にあたって、判断の決め手とした政策が「原発」ではなかったということもあるだろう。不況感は増すばかりで、経済のテコ入れは焦眉の課題だ。年金、消費税、子育て、TPP、安全保障、憲法……見比べるべき公約は数限りなくあった。原発政策はそのなかの一つ、ワン・オブ・ゼムに過ぎなかったということだ。

 だが私は、「原発」はこれらの諸政策と同列にとらえるべきではないと思う。それはなぜか。

 「原発」以外の諸政策は、どれも1本の座標軸に乗るものである。年金も消費税も子育てもTPPも、政府がどこまで社会的な弱者に手を貸すのかという考え方によって政策が違ってくる。大きな政府か、小さな政府かという対立軸である。現実には消費税やTPPなどで逆転現象がみられ、日本の政党絵図は整理されていないのだが、本来は理念によってすっきりさせられるはずの政策課題群である。

 安全保障や憲法の問題は本来、これらとは違う座標にある。だが日本では、大きな政府派が護憲派に、小さな政府派が改憲派にほぼ重なるように色分けされているように見える。

 ところが原発問題は、その本質に立ち戻ってイエスかノーを言うのであれば、まったく別の価値観を基準に判断しなくてはならない。人間は、科学技術に信をおいてどこまで自然界を支配できると考えるのか、あるいは、どこでブレーキを踏んで自然界の本来の姿を守ろうとするのか、という座標である。エコロジー思想に拠って立つ緑の政治思想は後者の立場にほかならない。

 その思想の成り立ちを教えてくれる1冊の本がある。『緑の政治ガイドブック――公正で持続可能な社会をつくる』(デレク・ウォール著、白井和宏訳、ちくま新書)だ。1980年代に欧州で台頭した「緑の党」の政治運動が、どこから生まれてきたかが詳しく描かれている。

 私は今秋、この本をブック・アサヒ・コムのコラム「文理悠々」で紹介した(「緑の政治思想を本気で考える」)。そこでも書いたように、緑の政治思想の源流には、政治の座標軸で右派の人もいれば左派の人もいたという史実がこの本から浮かび上がってくる。

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