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続:「脱原発とエネルギー転換に関する日独比較」ベルリン会議報告

吉田文和 愛知学院大学経済学部教授(環境経済学)

長年にわたり日独の環境政策を比較研究してきて、『環境と公害』誌にも寄稿しているヘルムート・ワイトナー博士(ベルリン社会科学センター)は、「ドイツの気候政策」として報告した。ワイトナー氏は1975年ころから、日本とドイツの環境政策の実証的研究に取り組んできた。今回でベルリン社会科学センターを定年になる記念すべき会議となった。ワイトナー氏は、気候変動政策、とくにCDMやEUETSなどについては、懐疑的である。とくに、公共性が大切な基準だからである。環境政策にはパイオニア国が必要であり、ドイツの「エコロジー的近代化」はその具体化である。ドイツの気候政策の成果は、先行者利益を得て、相対的には成功したといえる。先行者には、基準を設定できる強みがある。「グローバルな正義」と「分配的な正義」が大切である。負担の公平性が大切であり、これが挑戦的課題である。福島の事故によって、ドイツは脱原発を最終決定したのに、日本はなぜ変わらないのか?ドイツはなぜ、動態的に成功したのか?その背景として、戦争による東西ドイツの分割を深刻に受け止め、反省したこと、そして、ドイツにおける非物資的価値の問題や1960年代の学生運動が「緑の党」の結成に結びつくなど、の特質がある。
2日目のベルリン会議の様子=大沼進氏撮影

 エネルギー大転換に伴う挑戦的課題について、クリスチャン・ヘイ・ドイツ環境諮問委員会事務局長は「大転換の危機、100%再生可能エネルギーに向けて鍵となる問題」として報告した。エネルギー大転換の目的は、脱炭素化、化石燃料輸入依存の低減、「緑の成長」(投資と雇用)であり、そのために技術イノベーション、システム統合、政治的合意、グローバルな役割モデルが鍵となる。100%再生可能エネルギーは現実的であり、鍵となるのはコスト低下の学習曲線モデルである。課題は、あまりに再生可能エネルギーの成長が速いので、コストを制御できなくなることである。また電力網の拡大が遅れている問題がある。電力網の拡大は、インセンティブ・システムを変える必要がある。市民の初期からの継続的参加が鍵となる。

 ドイツの脱原発の歴史的経緯について、ルッツ・メッツ博士(ベルリン自由大学)が「ドイツの脱原発政策」を報告した。ドイツの脱原発政策は急いで決められたものではなく、1980年代からの長い道のりであった。ドイツでは、1956-57年から原子力からの電力利用プログラムがはじめられた。放射性廃棄物は、1965年からアッセで貯蔵がはじめられた。ドイツは、石油危機に遭遇して、原子力が促進される一方で、国内で核兵器配備反対運動が広がり、1979-80年の「緑の党」の結成につながった。反核兵器と反原発が連合した。1986年のチェルノブイリ原発事故をきっかけとして、社会民主党と労働組合は原子力反対に方向転換した。

 1986年には、経済省が脱原発の効果を検討し、また最終的に核燃料サイクルの放棄を決めている(2005年)。1998年には、社会民主党と「緑の党」の連合政権ができ、2001年に2022年までの脱原発を決めた。しかし、脱原発を決めても産業が抱える問題は多い。1つは放射性廃棄物の問題であり、また原子力関係の技能をもつ技術者と労働者の確保の問題がある。テロ対策、核拡散対策も必要である。2010年にキリスト教民主同盟は、脱原発を延長しようとしたが、他方で再生可能エネルギーと省エネを進めるエネルギー大綱も出された。原子力の解体のコストは、建設コストよりも高い。課題は、再生可能エネ拡大と省エネを進めることであるが、電力自由化は、安定供給が最大の課題である。

 ドイツの脱原発に関連して、残る問題群になかで、放射性廃棄物問題について、ロザリオ・ディヌッシ博士(ベルリン自由大学)が「ドイツの放射性廃棄物管理」として報告した。ドイツの放射性廃棄物管理問題は、政治問題化している。重要なことは、「フレーム」(枠組み、問題の立て方)である。利害と中心的な考え方が鍵となる。主なアクター(関係者)は、政府、各州政府、郡、NGO、産業、研究者とメディア

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