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8月6日に科学者に考えてほしいこと

中村多美子 弁護士(家族法、「科学と法」)

 もうすぐ8月6日がやってくる。

 夏休みの平和授業と、広島・長崎の平和記念式典の映像は、団塊ジュニアである私の世代だけでなく、私たちの次の世代にとって、もはや見慣れた夏の風景であり、それが何回目なのかをすぐには思い出すことさえできないくらいだ。

 とはいえ、西日本に住む私にとって、原子爆弾は単なる史実ではなかった。生活の中に被爆者は存在し、友人・知人にも被爆2世・3世は少なからずいて、彼らは顔をみて声の聞ける「相手」だった。

 子どものころ、私は、科学、なかでも物理学に憧れ、物理学者になることを志した。原子爆弾の開発をしていたロスアラモスにいたフォン・ノイマンが言ったとされる「科学者は今生きている世の中に責任を持つ必要はない」という言葉を小気味よくさえ感じていた。科学の真理をひたすらに追究する科学者としてのこの言葉と、身の回りにいた被爆者のひそやかな声は、学生時代の私の中で結びつくことはなかった。その後、科学者として生きていけるほどの能力はないと早々に見切りをつけて、喰っていくために弁護士になった私は、法廷という場で再び「科学者」と呼ばれる人々と出会うことになった。

 そんな昔の話を思い出したきっかけは、宇宙物理学者である佐藤文隆氏とライターである艸場よしみ氏による『「科学にすがるな!」宇宙と死をめぐる特別授業』(岩波書店、2013年)を読んだことだ。

 科学アカデミズムの中で生産される専門知が、社会の中で「善」なるものとして利用されるか、兵器等に「悪用」されるかは、その社会の状況による。フォン・ノイマンを例に取って佐藤氏は言う。「原爆をつくったりすることが、科学者にはワクワクすることなんですよ。だけど、科学者の根性が悪いから原爆をつくったのではないと思う。オッペンハイマーを先頭に、ロスアラモスで原爆開発に没頭した科学者たちは、あの時代が人生で一番楽しかったといっている。ぼくにはよくわかるんだ、それが。おそらくぼくだって、率先して行ったと思うね。(中略)ノイマンの評価なんて、簡単にわかってたまるか、という思いがあるね」

 そして、佐藤氏は

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