2014年10月22日
ノーベル賞発表後の研究者の反応について論じた前稿に続き、続編では日本国内におけるノーベル賞報道を論じよう。それが異様であることはかなり以前から指摘されている。そして、今回のノーベル物理学賞での日本人受賞後の各種報道も「相変わらず」であった。受賞者の人柄、生い立ち、家族関係、過去にマスコミを騒がした問題の蒸し返し、などを繰り返し報道した。タブロイド系のメディアは、それが目的なので仕方がないとしても、視座の高くあるべき各種メディアまでがそういった報道をした。
こういった日本独特のノーベル賞受賞報道は、日本文化というよりは、時代の変化への対応が遅いが故に起こっている現象だと筆者は考える。ノーベル賞受賞者のプライベートな事柄など、今時の国民の多くは「そんなことはどうでも良い」と思っているのではないだろうか。実際は、報道機関がそういった事柄を繰り返し報道するために、それらを見聞きした「結果」、国民の好奇心に火がつけられ、ネット上での噂話を煽るのではないだろうか。
その昔、まだノーベル賞が日本では夢のまた夢だった頃、日本人のノーベル賞受賞に皆で万歳三唱をしていたような時代に創られたプロトコールにしたがって、報道準備、また受賞後の報道が行われているのではないだろうか。
以前、報道機関の若い記者たちが「日本の報道陣が大勢ストックホルムに押しかける異様さはわかっているが、プロトコールにしたがった社命なので仕方がない」と言っておられた。組織内で、上から下まで、だれも自分の判断と責任で命令を下す、あるいは行動することが出来ない(しない)ために、結局、いままでの慣習・慣例に従うという無難な道を選ぶことになっているのだろう。そうすることで、なにがあっても誰の責任でもないという「無責任さ」が蔓延する。その結果、時代の急速な変化に対応できない社会ができあがるのだ。
こういった「時代の急速な変化に対応できない」例は他にも多く存在する。筆者のように研究者を職業としていると、毎年研究費を獲得しなければならない。公募型研究費のひとつに文部科学省系の科学研究費(通称「科研費」)があるが、その申請書の様式もその類いのひとつだ。まったく時代遅れで、タイプライター時代の様式そのままである。それぞれの記入項目、また各ページが太字の頑固な枠に囲まれていて、そこに求められている情報を記入していく。
世間一般に出回っている履歴書の様式も同様だ。今では、ほぼ全員がWordなどのコンピューターソフトを使って書類を作成する時代なので、フォントやマージンを指定するだけで済むはずにも関わらず、未だにタイプライター(あるいは手書き)時代のままの様式が使用されているのだ。これらも、様式を変えることで万が一想定外の不都合さや問題がおこった時に誰が責任をとるのだとなるので、今まで通り無難にやりましょうということになっているのであろう。
ノーベル賞報道に対しては別の見方もある。受賞者の私的部分を報道することで、ノーベル賞をもらうような人たちも、実はわれわれと同じような普通の人の側面があるのですよ、と伝えるのは意味があるという意見だ。そうすることで、サイエンスを親しみやすいものにしたいという願いがあるのかもしれない。日本では、皆が同じレベルであることがある種の安堵感をもたらす。そういう意味で、ノーベル賞を受賞するような人たちも、実は自分たちと同じ面もあるんだよと示したいのかもしれない。
しかし、これも一長一短だと筆者は考える。サイエンスに親しむ機会が増え、ノーベル賞受賞者が親しみやすくなることで、サイエンスを志す若い人たちが増えるという効果があれば、それは日本の将来にとっても良いことだ。しかし、マイナスの部分もある。
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