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グローバル化≠英語化

母国語で最先端の科学ができる価値を大事にすべきだ

須藤靖 東京大学教授(宇宙物理学)

 グローバリゼーションあるいはグローバル化という単語を耳にしない日がない。私は特に最近氾濫する意味不明のカタカナ英語に辟易させられている。この単語もまたカタカナ化された結果、本来の意味からかなりずれて理解されているように思う。過去の論考でも折にふれて触れてきたのだが、今回はそれを面と向かって論じてみたい。

東京大学工学部では、10年後には大学院の授業の5~7割を英語で受講可能にするという目標を掲げている

 グローバル化に立ち後れている日本社会の典型例が大学であると批判されることが多い。確かにその批判は的を射ている部分も多い。特に入試、講義や教育システムを具体的に改善すべきだとの指摘には同意する。しかし、それが国際大学ランキングの順位をあげるための講義の英語化、外国人学生を増やすための秋入学という形式的な制度変更の議論につながっているとするならば、それは本質を完全に誤解している。

 稚拙な秋入学の議論がなんとかおさまってきた最近、次に気になるのは、過度な英語化を推進する動きである。職業柄、私は日本人の中ではかなり英語を使わざるを得ない部類に属している。ほとんどの科学分野では、英語で書かれた論文以外は研究業績とは認められないし、英語以外で行われる国際会議はありえない。そのためか、大学内でも講義をすべて英語化する方向に進むべきであると強く主張する人々もそれなりの割合で存在する。その際に「英語だと学生が理解に苦労する」といった穏当な意見を述べると、直ちに「それは最初のうちだけで若者はすぐに適応できるから問題ない」と反論され、英語で講義したくないだけだろうと誤解されるのがお約束である。

 英語化推進論者は、科学や学問の成果を発信する、あるいは議論し主張する場面だけを想定しているのではあるまいか。しかし、実際に発信するにたる重要な成果があるならば、それを英語で文章化し口頭で発表することなど別に大した作業ではない。それ以前に、「学びて問う」という学問の本来の目的のために、母国語ではなくあえて外国語を用いる意味があるのかを考えてほしい。

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