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原発裁判における司法の役割とは

求めるべきは、科学論争ではなく、法的な価値の議論だ

中村多美子 弁護士(家族法、「科学と法」)

 2015年4月14日、福井地方裁判所が、高浜原発4号機の差し止めを認める仮処分決定をしたとの報を、私は米国ワシントンD.C.で聞いた。アイゼンハワーフェローシップという人物交流プログラムに、法と科学技術に関するテーマで参加をしていたさなかのことだ(判決の全文は、裁判所のサイトから入手できる)。続いて、2015年4月22日には、鹿児島地方裁判所が、川内原発が差し止めを求める仮処分申請を却下した(現時点で、決定文はこのサイトから入手できる)。

 2つの地裁は、結論において正反対だ。原子力の専門家からは、福井地裁の決定に対し「最新の科学をないがしろにする司法の暴走」という批判もなされた(例えば15日付産経新聞に掲載された宮崎慶次大阪大学名誉教授の談話)。専門家からすると、福井地裁は「科学的に」間違っていて、鹿児島地裁は「科学的に」正しい理解をした結果ということになるのであろうか。

 科学技術の知見には、一定の不確実性が伴う。どういう地震、どういう火山噴火にどのように備えなければならないかについて、専門家集団が一致する唯一の答えはない。そうした中で規制当局が下した判断について、より予防的(precautionary)に判断すれば高浜原発決定となり、専門家の相場観を尊重すれば川内原発決定となる。

 原発差し止めの裁判で、裁判官が、原子力規制委員会の行った判断に対し素人の後付け批判(second guess)をせざるをないのは、伊方原発最高裁判決(平成4年10月29日第1小法廷判決)があるからだ。

 この最高裁判決は、我が国の規制法制と規制基準について、深刻な原子力災害を「万が一にも起こらないようにするため」に存在すると位置づけ、司法は「現在の科学技術水準に照らし」、規制当局の判断の過程に「看過しがたい過誤欠落があり、当局の判断がこれに依拠していると認められるかどうかを判断する」ものとしている。「安全性」に関するsecond guessを司法の役割としているかのように読めるのである。

 福島原発事故までの間、我が国に原子力に関する「安全神話」が長く存在したことは周知のことである。そうした社会環境の中、伊方原発判決は下された。逆に言えば、万が一にも深刻な原子力災害が発生しないよう、専門家集団が検討に検討を重ねて規制基準を作成し、それを運用しているのであるから、その過程に重大な過誤欠落がない限り、過酷事故は万が一にも起こらず差し止めるような危険性はないというのが、司法の論法だった。

 福島原発事故までの間、万が一とされる過酷事故が発生する具体的危険を証明すべきとされた住民側にとって、挙証責任は大きな壁であった。しかし、万が一だったはずの過酷事故が発生した。これは個々の裁判官の具体的な心証形成に影響を与え、裁判所に残る「安全神話」は、諸刃の剣となって、むしろ事業者と規制当局に対し、大きな壁となって立ちはだかりはじめた。そう考えると、福井地方裁判所の仮処分決定は、伊方原発最高裁判決をむしろ素直に延長したものと評価することができる。

米国のスリーマイル島原発

 しかし、

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