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認知症事故訴訟、JRが訴えるということの奇妙さ

「振り替え輸送」で業界の互助に頼りながら、なぜ社会の共助に冷たいのか

尾関章 科学ジャーナリスト

最高裁判決を受け、記者会見する遺族側代理人最高裁判決を受け、記者会見する遺族側代理人
 最高裁判決に感動した、という経験はそんなにあることではない。だが今回ばかりは、心底うれしかった。認知症のお年寄りが列車にはねられ亡くなった事故で、介護にあたる家族に鉄道会社への賠償を命じていた下級審の判決を覆したのである。司法の最高機関が市井の感覚を尊んだということだろう。だが私が心を動かされた最大の理由は、別のところにある。高齢社会を支える条件の一つに共助の精神があるという認識が、これをきっかけに一気に広まるかもしれないという期待が膨らむからだ。

 この鉄道事故は2007年、愛知県大府市を走るJR東海の路線で起こった。認知症で線路に入り込んだ人は当時91歳の男性。一審の名古屋地裁は同居の妻(当時85歳、現在93歳)と別居の長男に計約720万円、二審の名古屋高裁は妻のみに約360万円を支払うよう命じる判決を出していた。私は2年前、高裁判決があったときに当欄で「認知症事故判決、『共助』の精神が見えない」という論考を書いた。今回はこのときに挙げた論点を整理して、改めて共助の必要を訴えたい。

 下級審の訴訟内容がニュースになったとき、私が引っかかったのは、原告のJR東海が損害賠償を求めた理由だった。朝日新聞などの報道によると、原告側は損害費目の一つに、列車の遅れに伴う「振り替え輸送費」を挙げている。いま大都市圏では、人身事故による列車の遅れがほとんど日常化しており、振り替えルートを利用した人は多いだろう。その経験に照らしてみれば、なるほどと思う話だ。通常ルートの定期券をもっている人は、振り替え先の路線では切符を買うことなしに電車に乗る。だから、事故路線の会社から振り替え路線の会社へ、金銭が流れることはあってよい。

 だが、不思議に思うこともある。A社とB社の路線が並行して走っていたとすれば、A線でトラブルが発生してB線に振り替えることもあれば、それとは逆にB線の輸送がA線に振り替えられることもある。精算処理をどうするかは企業同士の交渉ごとであり、方式はまちまちだろうが、いずれにしてもA社とB社は持ちつ持たれつの関係にあることは間違いない。仮にある日、A社がB社に振り替え輸送を頼んでそれなりの費用を支払ったとしても、別の日にはA社がB社から同程度の金額を受けとる立場になりうるのである。

 ここで言えるのは、振り替え輸送は天災から人災までさまざまなリスクと隣り合わせの業界がつくりあげた互助のしくみだということである。この備えがあるからこそ、公共交通を担う企業はその社会的責任を果たすことができる。

 もちろん、このしくみがあっても、不測の事態で電車の運行が乱れたときに鉄道会社が被る損失をすべて帳消しにできるわけではない。利用客の混乱を避けるためには駅構内の人手をふやさなくてはならず、人件費が膨らむだろう。事故が原因であれば、現場の処理や列車の補修に費用がかかるのも事実だ。そのことは認めるが、ここでどうしても問いたいことが一つある。鉄道会社は、自身が振り替え輸送という互助の恩恵を受けながら、どうしてその精神を社会全体の共助につなげていこうとしないのかということだ。

 よく考えてみれば、列車の遅れでもっとも被害を受けるのは利用客だ。

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