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大学と官僚がともに自立できる社会に

天下りをしなくても再就職できるようにするために

古井貞煕 豊田工業大学シカゴ校 (TTIC) 理事長

 自民党の河野太郎前行革担当相によれば、文科省から大学への幹部ポストへの現役出向が241人に上り、その内、理事が76人を占めているという。筆者が以前に勤めていた東京工業大学では、事務部門の部長のポストで、大学内からの生え抜きが就くことができるのは一つだけで、それ以外の部長はすべて文科省からの出向で占められている。

 文科省は学長からの要請に基づいて出向していると言っているが、天下りと同じで、ノーと言えないだけであろう。大学の側も「こういう人がいると役所から情報がもらえる」とか「役所との人的つながりがないと損をする」と言い訳しているが、これがおかしいと思わないのがおかしい。地方大学の幹部は、気の毒にも、「足しげく文科省に顔を出さないと、情報が得られない」と言う。

 このように「寄らしむべし、知らしむべからず」の形で情報がコントロールされるというのは、役所の業務における透明性の欠如に他ならず、こういう形で官僚が権力を発揮しようとするのがおかしい。

既得権益にしがみつく官僚と、流される大学

 文科省は「出向者は、それによって現場感覚を養い、行政に反映できる」とも言っているが、お客さんとして就いたポストで現場感覚が養えるはずはないし、現場のことは現場の専門家に任せるのが筋であろう。

東京・霞が関の文部科学省
 日本の大学にとって、文科省は生殺与奪の権を握る特権的存在になっている。文科省の官僚は、国立大学への運営費交付金、私立大学の設置認可などの許認可権、補助金などで、大学をコントロールしよう、植民地にしようとしている。極めて不合理である。

 「教育がいかにあるべきか」を扱う役所が、特権を振りかざしているのは、不思議と言わざるを得ない。文科省は、最低限の共通基準の確保と、基本的なサポートに徹して、「教育」の内容は大学の自主性に任せるべきである。

 ところが実際は、文科省は大学の自主性を妨げることを生きがいとし、一方の大学は自治の精神を発揮しようとせず、文科省の言いなりになることで楽をしようとしているように見える(拙稿「『自分で考え、自分で進める』が大学活性化の道」)。

天下りをなくすためには、個人の能力が磨かれる必要が

 官僚OBが、透明性のある一般的な就活システムのなかで、よい再就職先を見つけることができないとすれば、もともと優秀な官僚の能力が、権力の行使にしか用いられず、一般に役に立つ形で磨かれていないところに問題があると思われる。60歳あるいはその直前になれば、再就職しなければならないことがわかっているのに、得意分野も持たないため、業界や学界に天下ろうとするのが不幸の原因である。

文科省の天下り先となった早稲田大学の大隈重信像
 根本的には、官僚を含めて、社会が、各自の専門性を磨くことに価値を認めてこなかったことに問題があるということもできる。天下りをなくすためには、官僚が既得権益にしがみついたり、天下りに頼ったりしなくても、個人としてフェアに輝ける社会にしなければならない。

 役所が実力社会になっていないことを表す現象の一つに、キャリア・ノンキャリアの差別がある。若者が頑張って勉強して国家公務員I種試験に受かっても、キャリアポストが限られているため、ノンキャリア(II種)で採用されている人もいる。就職後はいくら努力しても、能力で評価されるシステムになっていないので、キャリアとの差別は一生解消されない。

十分に効果を発揮していない「大型競争的資金」

 文科省は、10年以上にわたって毎年1%ずつ国立大学の予算(運営費交付金)を減らしており、その減らした予算を競争的資金とすることで、大学の活性化を図っていると言っているが、その本来の役目を果たしていると言えない。大学では、文科省への「覚え」や社会的「評判」のために、大学単位の大型競争的資金を「勝ち取る」ことを主目的として教職員の莫大なエネルギーを費やして準備し、応募しているケースが多い。

 その競争的資金で行う内容は、大学全体の施策や本来の業務とは直接関係がないので、文科省への応募が「当たる」と、大学の正規教職員の関与は最低限にし、5年間などの限られた実施期間に入ってくる予算で非常勤の教員や職員を雇い、終わるまでそれで対応する。終わったら、非常勤の教職員の首を切って、おしまいとなる。それを継続する予算や体制はもともと想定していないから、

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