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お盆を科学する

コミュニティーを支える「共有リアリティーの再確認」

下條信輔 認知神経科学者、カリフォルニア工科大学生物・生物工学部教授

 唐突だが(科学・環境欄には似つかわしくない)次の問いを発しよう。幽霊は実在するか? またあの世(冥界)は存在するか?

 面白いのは、反応が大きく両極に別れることだ。「科学的根拠なんてない、迷信に過ぎない」とするか、「世の中には科学で説明できないこともある、幽霊もあの世も存在する」と断言するか。心理学的に言うと、このように意見が両極端に分かれるのは、コミットメント(関与・関心)が極めて深い場合だ(たとえば戦争や原発、代替医療の是非など)。

 お盆にちなんで、ここでは以下の立場をプッシュしてみたい。すなわち「(幽霊なんて)絶対あり得ない」という意見は、突き詰めれば「絶対ある」という意見と同じぐらい怪しい。ただし新興宗教やスピリチュアルブームで言うのとは相当ちがう意味であることを、あらかじめお断わりしておく。

コミュニケーションの可能性とは?

 まず「幽霊はいるか?」という問いは、「地球外に知的生命体はいるか?」という問いに似ている。「いる」ことを示すには、コミュニケーションが必要だ。コミュニケーション可能性はどう決まるか、考えなくてはならない。結論を先に言うと「シェアド(共有)リアリティー」の度合いによる。

墓前で手を合わせる親子=2016年8月、大阪市天王寺区
 音声で会話を交わすなら(英語か日本語か、という以前に)双方の発声可能で聴取可能な音域が、重なっていなければならない。視覚・触覚で会話するにしても、本質的に事情は一緒だ。「赤はストップ信号だから」と言っても、相手に赤が見えなければ話にならない。「手が痛い」と訴えられても、相手の体型によっては手がどこかわからない。つまりこういう身体構造や感覚器官の性能まで含めて、生物的・社会的・文化的な「環境」がリアリティーとして共有されていないと、会話は成り立たない。

 昨今連発される政治家の失言問題にしても、背景に共有リアリティーの崩壊(少なくとも不成立)がある。相手に伝わらない一方通行なんてコミュニケーションでもなんでもなく、ロクな結果にならない。

 さてこの立場から見ると、幽霊が「いる」ことを証明するのは絶望的だ。というのは、話しかけても幽霊は答えないから。したがって幽霊は(仮にいても証明できないので)「いない」のと同義だ。筆者は長らくそう思っていた。

社会を支える共有リアリティー

 ただ少し考えると、話はそう単純でもない。(生身の人間相手の)通常のコミュニケーションだって「本当に」通じ合っているかは疑わしい。日常会話にも曖昧さが常にあり、後で誤解だとわかるなんてこともざらだ。特に「誤解とわかる」時には、たいてい周囲からそれとなく教えられたり、手がかりを与えられている。

 たとえば、どこかで落としてしまった鍵を、隣りの犬がくわえて来たとしよう。ある人は「隣りのAさん、偶然見つけて茶目っ気を発揮したか」と思うかも知れない。別の人は「なんとありがたい、ひょっとして先日亡くなった母が犬に乗り移って助けてくれたか」と思うかも知れない。この二通りの解釈には、認知心理学的に見てそれほど大きな違いはない。神経科学的に見ても、

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