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「軍学共同研究」問題の本質を探る

歴史から見えてくる人間の弱さ、ずるさ、身勝手さ

高橋真理子 ジャーナリスト、元朝日新聞科学コーディネーター

池内了さんが東大・小柴講堂で講演

講演する池内了総合研究大学院大学名誉教授=2018年1月19日、東大・小柴ホール
 「科学と軍事研究-歴史から学ぶ」と題された池内了総合研究大学院大学名誉教授の講演会が東京大学理学部物理学教室の催しとして東大・小柴ホールで1月19日に開かれた。過去の科学者たちはどのように軍事研究と向き合ってきたか。語られた多くの事例から私が感じたのは人間の弱さ、ずるさ、身勝手さ、だ。人間は、自分で自分をだますことも得意なのだと思う。だからこそ、今この時期に「学」と「軍」、そして、そこにとどまらず「産」と「政」との関係を整理し、自分にだまされないように広い視野から考える必要がある。そう痛感させた講演会だった。

 池内さんは、防衛省と大学の共同研究推進へ向けた動きが出るといち早く「軍学共同反対アピール」を出して署名を呼びかけ、2015年に「安全保障技術研究推進制度」が始まった後の2016年9月には「軍学共同反対連絡会」を作って反対を訴えてきた。大学院生ら若手も多く参加したこの日の講演会では、「私は自分の考えを押し付けるつもりはない。皆さんで考えてほしい」と繰り返しながら、「日本の戦前から戦後」「ナチスドイツの物理学者」「戦後のアメリカの科学者による政府への提言活動」の3つの話題を語った。

学問の自由がもっともあったのは「太平洋戦争中」

 戦前の日本は、国民は国家の命令の従うべしという「皇民教育」が行われ、科学者も当然のように軍事研究に組み込まれた。仁科芳雄や菊池正士といった名だたる物理学者たちが、原爆開発や殺人光線(マイクロ波)研究にかかわり、熱帯病研究などの植民地科学も推進された。雪の結晶の研究で有名な中谷宇吉郎は北海道大学教授として「飛行機の翼への着氷実験」や「飛行場の霧を消す実験」などの軍事研究をした。

 中谷は、若手研究者が徴兵されると「この研究に彼が必要」と言って引き戻した。軍事研究遂行には、徴兵逃れで次世代の科学者を確保し、将来の科学に備えるという目的もあったとされる。

 1929(昭和4)年から経済競争力強化のための科学研究の振興が始まり、「国家重要研究事項」が内閣告示されたのが1933年だ。1938年には文科系を減らして工学系を拡充せよという教育審議会報告が出る。科学研究費補助金(科研費)が新設されるのは1939年だ。

 興味深いのは、こうした時代の流れに対する科学者たちの反応だ。長岡半太郎ら学界の大御所は「大学の研究は統制を最小限として研究者の自主性に任せる」ものだと主張したのに対し、仁科ら中堅は大御所を批判して積極的に戦争に協力するべきだと訴えた。こうして中堅に豊富な研究費が入ってきたが、実はそれを基礎科学の研究に使っていたことが多かったようだと池内さんは指摘する。

 このことは、日本学術会議が1951年に実施したアンケートの答えからも推測できる。「過去数十年において学問の自由がもっとも実現されていたのはどの時期であったか?」という質問に「太平洋戦争中」という答えがもっとも多かったのである。戦時中の科学者たちは、自分たちのやりたい基礎研究をするために軍を利用していた面もあったわけだ。税金を払った国民は「軍事研究に手を染めなくてよかった」と思うだろうか。むしろ「ずるい」といいたくなるのではなかろうか。

ユダヤ人排斥に対するドイツ物理学者の3つの態度

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