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ホーキング博士:計り知れないエネルギーの持ち主

90年の来日時の『科学朝日』記事で追悼する

高橋真理子 ジャーナリスト、元朝日新聞科学コーディネーター

 「車いすの天才物理学者」と呼ばれたスティーブン・ホーキング博士は、車いす「だから」でもなく、「にもかかわらず」でもなく、単に天才物理学者が車いすに乗っているだけだということを圧倒的な存在感で世界に知らしめた。それが障害者に対する見方を大きく変えたのは間違いない。宇宙物理学における業績もさることながら、生き方そのものが世界に大きな影響を与えた稀有な物理学者だった。

 博士は1985年に初来日、このときは京都を訪れただけで90年9月の2度目の来日で初めて東京に来た。それに先立ち、『科学朝日』は1990年1月号で「ホーキングの宇宙」を特集した。私はそこで彼の半生を書いた。これを再掲することで私の追悼の気持ちを表したい。

 なお、9月の来日の様子は『科学朝日』11月号で報告した。こちらについては、もしご関心があれば図書館などで探していただけると幸いである。ただ、1月号の記事にどうしても付け加えておくべきことがある。そのことは、再掲記事のあとに書き記したい。

【失意のどん底から栄光へ】(『科学朝日』1990年1月号から)

 ホーキングに病の兆しが表れたのは、ケンブリッジ大学の大学院に進学したばかりのときだった。靴ひもがうまく結べなくなる。舌がしばしばもつれるようになる。

 それまでの彼の人生は順風満帆と言ってよかった。熱帯病を研究する生物学者の長男として生まれ、私立高校からオックスフォード大学に入学。数学と物理を学び、ボート部のコックスを務め、学園生活を楽しんだ。そして首席で卒業。ケンブリッジに進んだのは、宇宙論の研究者を志し、フレッド・ホイルを慕ってのことだった。

不治の病の宣告に婚約が希望を与えた

 やがて病名が下った。筋委縮性側索硬化症。原因不明の難病である。随意運動に関係する神経系が次第に侵され、それが呼吸筋にまで及ぶと死に至る。根本的な治療法はいまだに見つかっていない。ホーキングは「2、3年の命」と宣告された。

 そういわれて、平静でいられる人がいるだろうか。ホーキングはひたすら自室に閉じこもり、クラシック音楽を聴き、SFを読みふけったという。アルコールにも浸ったらしい。

 しかし、やがて転機がやってきた。ロンドン大学で言語学を学んでいた女性ジェーン・ワイルドとの出会いである。幸いなことに、最初は急激に見えた病気の進行も緩慢になってきた。

 2人は婚約した。「それが私に生きる希望を与えてくれた」とホーキングはいくつかのインタビューで語っている。

 それからは精力的に研究に取り組んだ。「結婚するためには職を得なければならない。職を得るためには、博士課程を終えなければならない。そこで私は、生まれて初めて熱心に仕事に取り組んだ」(最近のエッセーから)。成果はたちまち現れ、特異点定理、ブラックホール面積増大の定理などを次々と証明。三〇代の初めには車いすなしには生活できなくなっていたが、もはやそれは研究の妨げにはほとんどならなかった。むしろ、「病気はプラスになった」とホーキングはいう。

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