メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

100年前にカワセミを撮った男がいた!

知られざる野鳥生態写真の先駆者、下村兼史の業績をしのぶ

米山正寛 ナチュラリスト

 野鳥の写真撮影を楽しむ人が多くなった。そうした人々がこぞって被写体に選ぶのは、羽毛の青い輝きが美しいカワセミのようだ。そのカワセミの姿を約100年前に初めてカメラに収めたのが、日本の野鳥写真家の嚆矢となった下村兼史(しもむら・けんじ、1903~67、※1)である。その写真展が9月21~26日に東京・有楽町で開かれる(※2)。まだガラス乾板を使っていた時代から、重い機材をかついで野鳥を追った下村は何を伝えようとしたのか。写真展の実行委員会事務局長で、生前の下村とも接点のあった塚本洋三さん(78)に語ってもらった。

*   *   *

――野鳥ファンの中でも、下村兼史の名はほとんど知られていない。どんな人だったのか。

下村兼史。20歳前後の時と思われる(バード・フォト・アーカイブス所蔵)
 下村は佐賀市の裕福な家庭に生まれた。家の大きな庭には池もあり、子どものころからそこに来る鳥を眺めるなど、鳥が好きだったようだ。病弱で大学予科を中退したとき、父親から「写真家にでもなれば」とカメラを与えられ、それで野鳥を撮り始めた。1920~30年代は日本を北から南まで(北は当時の日本領だった北千島や樺太、南は奄美大島や小笠原諸島)回って写真を撮り、40年代からは映画の撮影に没頭した。鳥の図鑑に絵も描いており、いずれも日本における先駆者と言える。没後、プリントやガラス乾板、フィルム、書籍などの資料が、遺族から山階鳥類研究所へ寄贈された。2005~08年に私も加わってその資料整理を行い、初期の貴重な生態写真の存在を確認できたので、公開する価値があると考えた。長い準備期間を経たが、写真展の開催にこぎつけることができ、たいへんうれしい。

――撮影はカワセミの写真から始まったようだが。

「原板第1号」のカワセミ=1922年1月5日、佐賀市(下村兼史撮影、山階鳥類研究所所蔵)
 下村本人が、1922年1月撮影のこのカワセミの写真を「原板第1号」と呼んでいた。その前にも何かしら撮っていたと思うが、写真は残っていない。佐賀の家の庭では、池のほとりのマツの枝にカワセミがよくとまることは、観察から気付いていたのだろう。望遠レンズはなかったため、カメラをマツの近くにセットし、本人は家の窓辺まで離れ、長い紐をひいてシャッターを切るという工夫をして撮った。この原板は、山階鳥研の資料の中から見つかったが、かびなどによる劣化が見られた。今回は原板をデジタル化し、それをきれいに修復したプリントをパネル展示する。

――野鳥撮影をどのように学んだのか。

 はじめは教わる人もいなかった。当時、アメリカのコダック社が出していたコダケリーという写真雑誌に、生態写真の撮り方が連載されていた。どうやって手に入れていたのか分からないが、友人が(下村と)二人で読んで、「随喜の涙を流した」と書き残している。海外の情報をもとに、試行錯誤しながら研究したのだろう。

――当時の撮影の様子は。

 100年近く前に野鳥の生態写真を撮る苦労は、今と比較にならない。下村は1926年に佐賀から福岡に転居したが、それから何度も有明海へ撮影に行ったことが記録に残っている。当時は汽車賃が往復3円、ガラス乾板は1箱12枚で1円30銭、その他の経費も見込んで、5円(今の価値で1~2万円くらい?)がたまれば出かけていったという。車もない時代で、カメラのほかにレンズや三脚、ブラインド(目隠し)用のテントなどを持って、駅から1里(約4キロ)の道を干潟まで歩いたというのだから大変だ。しかも、1日に12回シャッターを押したらおしまいだから、潮の干満を見計らいながら、1回のチャンスにかける緊張はすごかっただろう。

――今のデジタルカメラによる撮影では、たくさん撮った中から良い写真を選ぶのが普通だから、まるで違う。

ナベヅルの降下飛翔=1928年1月25日、鹿児島県荒崎(下村兼史撮影、山階鳥類研究所所蔵)
 ツルの群れの撮影に出かけた鹿児島県の荒崎で撮ったナベヅルの降下飛翔の写真を見ると、田園風景の中へ、まさにツルの群れが下りようとしている。大きな鳥だが、実際にはあっという間のこと。そこを1回のシャッターチャンスで捉えるのは並大抵のことではない。荒崎では、わらをかぶせた隠れ家(ブラインド)を地元の人に造ってもらい、何時間も中で待って近くに来る鳥を撮影した。今では当たり前の方法だが、そんなことも初めてやった。この写真には、わらぶき屋根など1920年代の情景が写っていて、耕地整備がなされた今とは周囲の環境が全く異なる。野鳥の生息環境が大きく変化したことを伝える点でも、下村が残した写真はとても貴重だ。

――その後、上京して各地の鳥を撮影するようになった。

手の上のジュウイチの雛に給餌するオオルリ=1929~31年ごろ、静岡県須走(下村兼史撮影、山階鳥類研究所所蔵)
 著名な鳥学者だった内田清之助と、1929年ごろに九州から上京して会い、内田のはからいで財団法人の資金助成を得たり、農林省の嘱託職員となったりして、はじめは富士山麓、その後は先ほど話したように全国で写真を撮った。下村による学術的な貢献の一つに、托卵鳥の撮影がある。カッコウ科の鳥たち(カッコウ、ツツドリ、ジュウイチ、ホトトギス)が小さな鳥に托卵して、子育てをさせることはわかっていたが、大きな鳥の卵が小さな鳥の巣の中に、どうして産み込まれるのかがまだわからなかった。下村は、最終的に1940年代になって、ジュウイチの親鳥がコルリの巣に卵を産み、コルリの卵を一つ巣から取り去る様子を撮影してその謎を解いた。そこに至るまでの過程に様々な写真が撮影され、今回展示する、大きなジュウイチのひなに小さなオオルリの親鳥が餌を与えている写真も、そうした一枚だ。

――下村の写真は、世界的にも評価されていった。

 1935年にロンドンで万国自然写真展覧会が開かれた。要請があって、日本からも9人が50点の作品を出したが、下村が27点と最も多かった。さらに終了後にまとめられた優秀作品集に載ったのは日本人では下村一人だけで、しかも4点が選ばれた。いかに下村の写真が評価されたかが分かる。先ほど話したナベヅルの飛翔降下の写真はそのうちの1点だ。他には、同年に奄美大島で撮影したルリカケスの写真も含まれている。樹洞を利用した巣は薄暗く足場の悪いところにあり、カメラを巣の前に仕掛けたうえで本人は離れた場所でひもを引いてシャッターを切るという方法で、失敗を重ねながら撮影した。なんとか成功したわずか2枚の中の1枚だという。

巣穴に飛び込むルリカケス=1935年4月20日、鹿児島県奄美大島(下村兼史撮影、山階鳥類研究所所蔵)
国内で絶滅する前のコウノトリ。巣の中に親鳥1羽と巣立ちが近いひな2羽がいる=1920年代後半、兵庫県出石(下村兼史撮影、バード・フォト・アーカイブス所蔵)

――塚本さん自身と下村の接点は。

 1930~31年に発行された下村の『鳥類生態写真集』(第1~2輯)を高校生の時に古本屋で見つけたのが始まりだ。すごい写真を撮る人がいると思った記憶がある。その後、先輩バードウォッチャーが下村の甥だとわかり、自宅へ連れていってもらった。1950年代に数回訪ねて、写真の話をしたことがある。1957年に東京・銀座で開かれた鳥の写真展には、下村が作品を5点、私は2点出したという思い出がある。その写真展で、「下村の最後の弟子」と称していた写真家の吉田元(※3)とも知り合った。まもなく私が留学のため渡米して、再び下村と会うことはなかった。だが、帰国して日本野鳥の会勤務を終えた後、古い貴重な野鳥写真が撮影者の高齢化で失われる前に保存したいと考え、2003年に(有)バード・フォト・アーカイブスを立ち上げ、吉田に連絡を取ったところ、山階鳥類研究所に下村の資料が遺族から寄贈され、未整理のまま保管されていることを知った。結局、私が中心となって所員らの指導を受けながら整理することになった。その作業の中で、多くの人に下村のことを知ってもらうため、ぜひ写真展を開きたいと考えるようになった。

――どんな思いで写真展の開催を迎えるのか。

塚本洋三さん。下村兼史が愛用したものと同型のグラフレックスカメラ(ガラス乾板で撮影できる)を持ち出して語ってくれた
 当時の鳥の研究は分類学が中心で、何よりも標本の採集が重要とされていた。しかし、そんな時代に下村は写真で野鳥の生態を記録した。鳥の姿を自然の一部として切り取った写真は、生息環境などを伝える資料性に富みながら、芸術性も持ち合わせた作品になっている。下村は、ただ写真を撮れば良いというのではなく、自然を大事にしながら自然をあるがままに撮るべきだ、という思いを書き残している。昨今は野鳥撮影をする人も増えているが、この姿勢はそのまま現代に通ずるものがある。野鳥写真を撮るようになった最初期の写真家が、そうした視点を持って撮影に挑んでいたことを知ってほしい。

 

 

※1 下村は1930年代に名前を兼二から兼史に変えている。ここでは兼史に統一して紹介する。

※2 「下村兼史生誕115周年 100年前にカワセミを撮った男・写真展」。2018年9月21日(金)~26日(水)、午前11時~午後7時(最終日は午後4時まで)。東京・有楽町の有楽町朝日ギャラリー(JR有楽町駅前のマリオン11階)。入場無料。主催・公益財団法人山階鳥類研究所、後援・朝日新聞社ほか、助成・公益財団法人朝日新聞文化財団。山階鳥類研究所が所蔵する下村兼史に関する資料を中心に、貴重な写真のオリジナルプリント約50点や鳥類図鑑の原画などを展示する

※3 当初は、周(しゅう)はじめ、と名乗っていた。