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「障害」の表記問題の本質は「見えない線引き」

その解消を目指すには「ニーズ」という言葉が現状では最良か

三田地真実 行動評論家/言語聴覚士

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表記の問題を超えた重要な点とは

 「障害者」に「害」という字が入るのはおかしいという長年続いている議論に対し、3月4日の論座において杉田聡氏が「しょうがい」と表記することを提案している(「障害者」ではなく「しょうがい者」と記そう - 杉田聡)。文化審議会国語分科会の国語課題小委員会が、「障害」の代わりに使われている「障碍(しょうがい)」の「碍」という文字を常用漢字に「直ちに追加することはしない」という見解を2月26日にまとめたのを受けた論考である。

 「障害」を何と表すかについては、これまで様々に議論されてきており(例えば、「障害」の表記に関するこれまでの考え方(国語分科会確認事項))、これは大事なことであると思う。しかし、私自身が障害児教育やリハビリテーションの専門職として、当事者やその保護者・家族からの話を何度も伺う中で気づかされたことは、「どのように表すか」という表記の問題を超えたところにある重要な点を問わなくてよいのかということである。

 それは、「障害」「障害者」という表現の裏にある「あちら側とこちら側を隔てる“見えない線”」を問うことである。その線をなくす表現として、現時点での最良案は「ニーズ」という言葉であると提言したい。

「私には関係ないですね」という一言

 何かの問題を解決しようとする際には「問いの立て方」が大変重要になる。「『障害』を何と表記するか?」という問いは、果たして私たちの社会が解決していかなければならない事の本質を問いただす問いなのだろうか? 私自身がこの「問いを問い直す」ことに気づかされるに至ったエピソードを紹介する。

 以前、ビジネスパーソンが中心の集まりで自己紹介をしたときのことだ。ペアとなった若い男性に私が「専門は障害児教育とリハビリテーションです」と言ったところ、その彼は間髪を入れずに「僕には関係ないですね」と言ったのである。いや、「言い放たれた」と私には聞こえた。一瞬「え?」となったが、「ああ、なんと想像力のない人なんだろう」とそれ以上話が弾む訳もなく、その場限りの縁だった。

 残ったものは、彼の「僕には関係がない」というフレーズだけだった。私は心の中で、「次の瞬間に突然関係があることになる可能性が常にあるんですよ」とつぶやく。突然の災害、事故などで病院に担ぎ込まれ、その後障害を負う、あるいは様々な後遺症に悩まされている例は枚挙に暇がない。私は病院勤務のときにその現場を見ている。

当事者になって気づく「線引き」

テーブルサッカーの体験会でゲームに夢中になる障害児たち=2017年7月9日、高崎市寺尾町
 また、障害のある子どもの父親と話していたときのエピソードも忘れられない。親の会などいろいろな活動も精力的にされていたその方は、初対面の私に対して、自分の子が通う学校にも様々な要望をしていると熱く話された。小1時間ぐらいずっと「そうなんですね」と話を聴いていたら、元々熱かったお話がさらに熱くなり「学校の先生は……で駄目だ」とか「社会がもっとこういう子たちのことを理解するべきだ」とか、社会全般を非難する話に移行していった。私は遂に口を開いた。

 「〇〇さんは、障害のあるお子さんを授かる”前から“そのことに気づいて、そういう活動をされていたのでしょうか?」

 その方はびっくりされたように少し間をおいて「いいえ」と答えた。そこで私は「世の中は、〇〇さんがお子さんを授かる前の状態なんです。社会はダメだというばかりではなく、そういう人々に本当にわかってもらうためには、どうすればよいのか考えていかなければならないんではないでしょうか」と言った。

 自分たちが当事者の立場になると社会の理不尽さを嫌というほど味わい、思いを共有できる人々でグループを作り、社会的な活動へと発展する。こういう事例は少なくないように思う。もちろん、当事者でなくともサポートをしている人々がいらっしゃるのは承知しているが、社会全体での比率として見た場合ということである。

「線引き」を表すことなく、本質を示す用語はないか?

 ここから伺えるのは、「そうなっていないときには、関係ない。なったときには、非常に大きな問題としてとらえられる」という個人の認識の大転換があるということだ。そこには

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