「必然」と「偶然」にあらわれる時代性
2015年02月17日
「タカラヅカ」=宝塚歌劇は、2014年に創立100周年を迎えた。創立は1913年(大正2年)、まだ第一次世界大戦も始まっていない年だ。
浮き沈みの激しい興行の世界で、「100年」の歴史を築き上げて来れたのは、なぜか?
時代を超え、世代を超えて多くのファンを引きつけてきた最大の理由は、華麗な舞台の魅力そのものに違いない。
だが一方で、「100年」もの持続を支えたのは、「タカラヅカ」独自の経営戦略と、偶然と必然がないまぜとなったその環境であった。元宝塚総支配人森下信雄は、『元・宝塚総支配人が語る「タカラヅカ」の経営戦略』(角川oneテーマ21、2015年1月刊)で、そのように語る。
「宝塚少女歌劇」は、阪急電鉄の乗客を増やす目的で創立され、収益はもっぱら鉄道運賃に期待されたので、当初興行利益を考慮せずにひたすら「よい舞台」をつくることに専念でき、そのことが「タカラヅカ」の土台を築いたのである。
時代が移り、「タカラヅカ」にも収益を期待されるようになるころには、五つの組の公演(扱いは常に平等で、本公演は45回と決まっている)をコンスタントにつくり上げ、団体客営業や私設「ファン会」によるチケット販売、そして定期的な地方公演のローテーションが確立された。
一度完成されたヒット作の再演は、興業利益の面では効率的だった。
森下が「タカラヅカ」の経営に携わった80年代から90年代は、文化関係の公的な予算が急増したバブルの時期で、「公立ホール」が中央地方を問わず乱立した時代だった。
ところが「ハコ」を活用する側への手当、配慮がなされず、キーとなるプロデューサーの確保・育成が十分にできなかったため、稼働率は50%以下だったという。空いた「ハコ」に「タカラヅカ」は歓迎され、地方公演は「タカラヅカ」の経営基盤を安定させた。
年間を通じての公演は、雇用を保証されたスタッフによる継続的な作業並びに研鑽、相互の協力関係の強化を生む。演出家は、専従の裏方の存在を前提に台本を書き、演出を考えることができる。舞台裏には「あ・うん」の呼吸が、随時交わされる。
もちろん「タカラヅカ」の最大の資源は、スター女優である。
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