「男女共同参画」という観点は貫かれるべきなのか
2017年04月17日
だが一般に男女共用手洗い自体には大きな問題がひそむことを、ここで問題にしなければならない。というのは、「男女共同参画」の論理から、手洗いも男女の区別を設ける必要がないという意見を、実際に耳にしたことがあるからである。
今回の「男女共用トイレ」の設置という話が、その内実が十分に知られないまま、共同参画の論理を介して、一般的な男女共用手洗いの話につながらないかと、私は若干の危惧を抱く。
私は、ある大都市の名望家で、その地域の男女共同参画計画に深く携わる、影響力の大きい女性を知っている。その人と、今日でも根強い男女の性別役割観について話をしていたとき、その女性が、「男女共同参画を実現するために、不要な男女の区別はいらない。手洗いも特に分ける必要はないと思う。男女ともに個室に入る形にすれば問題はない。私は手洗いを男女共用にするよう、□□に提案するつもりだ」、と話すのを聞いてギョッとしたことがある。
日本で言う「男女共同参画」は、対外的には gender equality である。「男女共同参画社会基本法」(1999年施行)が制定された時期、自民党政府は「ジェンダー」という言葉を使わないよう指示したが(これは前代未聞のできごとである)、対外的には gender を用いつつ、国内的にはジェンダー平等を「男女共同参画」と表現するという二枚舌を使ったのである(杉田聡『「日本は先進国」のウソ』平凡社新書、86頁)。
だが、男女共同参画のうちにジェンダー平等のための各種施策が含まれると考えるのは、その計画の担い手にとって当然である。だから、おのずと男女共同参画の観点から、ジェンダー平等のための施策・論理も出てこざるをえない。
したがってそれは、男女間に伝統的に設けられてきた区別・役割を排そうとする姿勢を生まずにはおかない。しかし、男女共同参画の観点は、はたして手洗いに関しても貫かれるべきなのだろうか。
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