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大森立嗣の『ぼっちゃん』は凄すぎる! 秋葉原事件をモチーフにした怪物的な傑作(下)――“殺人教”の伝道師としての黒岩、および上野昂志氏の卓抜な批評について

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 『ぼっちゃん』の終盤では、梶がダガーナイフを収めた革のベルトを裸の上半身に巻きつけるところが、じっくりと長回しで描かれる。ついに梶のなかで殺意が顕在化するシーンだ。

 が、それは特定の誰かに向けられた殺意ではない。そして、その後に展開されるのは、ねっとりとした異様なサスペンスが渦巻く本作最大のヤマ場だ。

――田中とユリが泊っているホテルの一室に侵入した黒岩が、気絶したり我に返ったりを繰り返す田中を尻目に、ユリを組みしいて犯そうとする。が、そこへ梶が現われる。しばらくは放心したように突っ立っていた梶が、やがてスローモーションのようなゆるやかな動作で、黒岩の腹にナイフを突き立てる(梶の緩慢な動きに加えて、刺されている間も黒岩が不気味な笑い声をあげ続けるので、この“ブサイクがイケメソを制圧する”シーンには、何か夢魔的な雰囲気が漂い、カタルシスはほとんど感じられない。ちなみにクロード・シャブロルの運命論的スリラーの傑作、『ふくろうの叫び』<1987>にも、時間が膨張してゆくような、ナイフがゆっくりと振り下ろされるショットがあった)。

 だがそれにしても、ホテルの一室で4人が入り乱れるさまを、いささかも痛快ではない、時間を粘っこく引きのばすような描法で撮り切った大森立嗣には、あらためて脱帽する。

 このヤマ場の少し前の場面で、黒岩は梶に対して、かつて自分が殺した岡田コウジへの劣等感を吐露し、性格がワルイ自分には価値(勝ち?)がない、自分は基地外(キチガイ)だ、つまり自分は梶と似ている、人を愛すと怨恨で殺すよ、無差別に(!)、といった意味の注目すべき言葉を口にする(前半での、自分は「基地内」だと言い放った不遜な物言いとは真逆の、つぶやくような口調で)。

 そこでの黒岩は、あたかも梶に<なりすます>かのような、あるいは梶の<分身>であるかのような言葉をささやく。つまり、黒岩はそのような思いを梶に吹き込むことで、自分が“病”として抱えている暴力を、梶に転移し、彼に無差別殺人決行を唆(そそのか)したのではないか。

 いいかえれば、「私より幸せな人をすべて殺せば幸せになれますよね」、などと携帯サイトに書き込んでいた梶の潜在的な殺意を、ナイフを振るうまでに顕在化させた挙句、ついには無差別殺人への決定的な一歩を踏み出させるのは、梶のねじれた<分身>、ないしは“殺人教”の教祖ともいうべき黒岩ではないだろうか。じっさい映画のラストで、梶は傷を負った黒岩と車で秋葉原に向かうのである――。

 ちなみに黒岩は、黒沢清の傑作スリラー『CURE/キュア』(1997)で、催眠術によって殺人教唆をする間宮(萩原聖人)をちらりと連想させる。

<付記>

*ここまで書いてきて、映画評論家・上野昂志氏の『ぼっちゃん』評、「煉獄をさまよう孤独な魂」を読んだ(パンフレット所収)。上野氏はそこで非常に興味深い指摘をしているので、そのいくつかについて触れてみたい。

――たとえば、「イケメン」という言葉について上野氏は、「イケメン」なる言葉はいつから高値をつけて使われることになったのか、と問いながら、かつて男共は、「男は顔じゃない」という言葉で慰められていたのだが、その裏側には「女は顔だ」というマッチョな価値観が貼り付いていた、と述べる。

 そして、イケメン=◎というふうに、「男も顔」となったのは、 ・・・ログインして読む
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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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