3・11以降の日本に対する重要な問題提起
2015年11月19日
山本義隆は1964年に大学院に進み、物理教室の素粒子論研究室で学びながら、日韓闘争などのデモに出かける。
「このころのデモでは、完全武装の機動隊にサンドイッチされ、その内側で私たちはボコボコにされていた」と山本は記しているが、60年代中頃の学生運動は停滞の極致にあり、デモの参加者は極めて少なかった。筆者も日韓闘争デモで機動隊にもみくちゃにされて、メガネを壊されたりなくしたりした。
そして山本は、東大全共闘代表としてマスコミにも取り上げられるようになるのだが、東大闘争の意義について次のように分析している。
「東大闘争は、学生処分等に見られる国大協と東京大学の学生管理の問題を問うていた」のだが、「東京大学で営まれている学問や研究そのものの問題性を問うまで深化して」いた。
1968年は明治維新からちょうど100年だが、「明治以来の国策として推進されてきた日本の科学と技術そのものと、その過程を中心的に担ってきた東京大学を問題としていた」のだと。
そして、科学史家である山本ならではの日本の科学技術史と、東大との深いかかわりが論究されていく。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください