するする読める文、主人公のわかりづらさ、唐突なラスト……
2017年06月14日
又吉直樹の『劇場』。先日見たらAmazonのランキング小説部門で1位で、さっき見たら1位じゃなかったけどまだ上位盤石っぽい強さ。とにかく売れてるのだ。うらやましくて涙が出る。
うらやましいから新刊で買って読むのがシャクなのでAmazonのマーケットプレイスで注文した。せめてもの抵抗で。
それがいくら待ってもぜんぜん送ってこず、発送連絡にかかれている荷物の追跡番号も調べたらぜんぜん関係ない国際郵便とかで、店に連絡してみたら「すでにそのメールは使われてません」みたいなことになっており、これはいわゆる「ヤラレちゃった」ってやつだろうか。
しょうがないので新大阪駅のキオスクで買いました。キオスクでも目につくように売ってるんだ。それほど売れると思われてるんだ。うらやましすぎて涙が出る。売れてる本は今後も、ヤラレないように気をつけてマーケットプレイスで買いたい。
しかし売れてる本にうらみはあるが、本そのものには公平に接したい。
と思いながら『劇場』、読んでたんですが、……これはいったい誰が読んでるんだろう。こういう話を人は喜んで読みたいのか。
というと何か「つまんねえ本」だと言いたいみたいだけどそういうことではない。
又吉直樹って、『火花』を読んだ時に思いましたけど、文はうまい。
ただ、書き出しはへた。『劇場』の書き出しはこうだ。
「まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。」
なるほど。なるほどだけど、これがまぶたについての小説なら(まぶたについての小説なんて、なんて純文学!)この書き出しはとてもいいと思うが、そうではない。この「まぶたは云々」の文章が3行あって、1行アケて、
「八月の午後の太陽が街を朦朧とさせていた。半分残しておいた弁当からは嫌な臭いがしていて」とくる。
ここからでいいじゃん! まぶたがどうしたとか、何気取ってんだ、と気恥ずかしくなるから、最初の3行カットしようよー。
というふうに、冒頭というか書き出しのあたりについ、力が入ったような「文学的」な、「ふとした日常のふとした気持ちを淡々と活写する」的な描写が来る(力が入った淡々とした文章、というのは矛盾してるようだが、淡々をやりたいあまり力が入っちゃってるなー、といたたまれなくなるというつらい状態である)。
冒頭がそんなんだと、文学を好む人間としてはつい身構えてしまうのだが、読み進めるとあんまり気にならなくなる。そのつもりで見返すと、そういういたたまれない「力が入った淡々とした描写」は散見されるけど、まあ、見慣れるというのか、そこにはひっかからなくなる。するする読める文である。するする読める文を、特に小説という分野で書く人ってのはなかなかいない。『火花』も『劇場』も両方ともするするだ。だからきっと、ちゃんと「うまい」んだと思う、又吉さんは。
青木るえか 又吉直樹『火花』を批判しようと思ったんだけど…――師匠によって封じられる読者のツッコミ(WEBRONZA)
矢部万紀子 又吉直樹『劇場』の中にいる人志松本と布施明――最後に泣ける達者な恋愛小説の「不覚感」(WEBRONZA)
かわりにひっかかるのは、
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください