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「いたずら」から「セクハラ」へ、経験の再定義

上野千鶴子 社会学者

セクハラ研修を受ける財務省の幹部ら=東京・霞が関の中央合同庁舎4号館201805拡大福田淳一前事務次官の問題を受けて、セクハラ研修を受ける財務省の幹部たち=2018年5月

経験の再定義

 財務省前事務次官福田淳一氏のセクハラ疑惑に対して幕引きを許さないと矢継ぎ早に実施されたアクションのなかで語られたことばの数々に、わたしは目を瞠(みは)った。「家父長制の抑圧」「ジェンダーの再生産」「自分を定義する」……かつて女性学・ジェンダー研究の学術用語だった概念が、日常のことばのなかで使われている……そもそもセクハラことセクシュアルハラスメントということばも、かつては日本語になかった。ジェンダー、セクシュアリティ、セクハラ、DVなど、どれもカタカナことばなのは、もともとそれらに当たる概念が、日本語になかったからだ。

 「からかい」や「いたずら」をセクハラと名づけ、「痴話げんか」をDVと名づけて、女性の経験を再定義してきたのは、フェミニズムである。裏返しに言えば、セクハラを「いたずら」と呼ぶことで矮小化しようとし、青あざをつくって交番に駆けこむ妻を「犬も食わない痴話げんか」と言って追い返す警官のふるまいは、男性に有利なように「状況の定義」権を行使していることになる。

 その点では、自らのセクハラを「ことば遊び」と矮小化した福田前次官は、同じことをしている。福田氏は性的人権侵害に当たるような発言を「お店の女性とのことば遊び」と呼んだが、女性記者に言うのがアウトな発言は、だれに対してもアウトだろう。もし氏が「お店」と呼ぶ、キャバクラや風俗店でなら許容されるとしたら、これらの環境では女性の人権侵害が蔓延していることになる。客は人権侵害に対して、対価を払っていることになるのだろうか? 対価を払おうが払うまいが、人権侵害は人権侵害にちがいない。

 福田氏の発言が「ことば遊び」か、それとも「セクハラ」という名の人権侵害かは、「状況の定義」による。そしてこの「状況の定義」権こそを、権力と呼ぶのだ。多くのセクハラ加害者が、「あれは合意だった」と言うのは、そのためである。

 概念がなければ経験を表現することができない。概念があったからこそ、あのときのもやもやはセクハラというものだったのだ、と過去にさかのぼって女性は自分の経験を再定義することができた。そしてセクハラという概念は、けっして「いたずら」や「からかい」のように軽いものではないこと、被害者は深い傷を負い、心身の不調、自己評価の低下、自信や意欲の喪失、鬱(うつ)や不眠、場合によっては自殺念慮を持つことなどが知られている。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という概念が拡がったのもそのおかげである。セクハラの起きた場所や状況に近づくと、フラッシュバックが起きたり、パニック発作が起きたりする。

 有名なのは1992年に提訴された横浜セクハラ裁判である。午前中に上司にセクハラを受けた女性が、ランチタイムに何事もなく(ないかのように)ランチを食べたという事実が争われた。フェミニスト・カウンセラーの河野貴代美さんが法廷に意見書を書き、そのなかで、あまりにトラウマ的な出来事が起きたあとには、日常生活のルーティンを維持しようとする一種の解離現象が起きると説明した。解離もPTSDの一種である。このように、積み重なる裁判の過程で、フェミニストの法律家、アクティビスト、専門家、研究者たちは、セクハラ被害者のPTSDや二次被害について、「ふつうの男」たちにすぎなかった警官や検事、裁判官たちを啓蒙してきたのだ。

フェミニズムの達成


筆者

上野千鶴子

上野千鶴子(うえの・ちづこ) 社会学者

1948年富山県生まれ。社会学者。東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長。1994年、『近代家族の成立と終焉』でサントリー学芸賞、2011年朝日賞受賞。著書に、『ナショナリズムとジェンダー』『生き延びるための思想』『おひとりさまの老後』『身の下相談にお答えします』『男おひとりさま道』『おひとりさまの最期』など多数。近刊に『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』(朝日文庫)。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです