深緑野分 著
2018年10月22日
タイトルと著者名だけを見てやり過ごしていた。天気のことを書いた本かなどと思い込んでいたからだ。何しろ猛暑の夏が過ぎてやれやれと息をついたのもつかの間、秋の長雨に加えて、毎週のように台風がやってくるのだ。それも並大抵の台風ではなく、伊勢湾台風の再来などというから、60年近く前の惨状を思い出したりもする。著者の「野分」などという名前も不気味である。
時は1945年7月。5月にドイツが降伏して、この7月にはベルリン郊外のポツダムで、日本を降伏させるための「ポツダム宣言」が出される。これは授業で習った。そのベルリンは一時的に米ソ英仏によって共同統治されていた。これがやがて東西の冷戦時代を引き起こすことになる。
物語はこの共同統治下のベルリン、焼け野原と化した街にドイツ人少女のアウグステがやってきて、恩人である男の死をその甥に伝えようとするところから始まる。死んだ男はソ連が統治する地域で毒殺されていた。歯磨き粉に毒が入れられていたのだ。なんだか今でもありそうな事件である。
アメリカ軍の兵員食堂で働くアウグステには、ファイビッシュ・カフカという泥棒が道連れとなる。この組み合わせ、とりわけカフカの存在が愉快である。
ミステリの紹介では謎解き、あるいはそのヒントとなることはご法度だから、ここでは詳細は避けるが、このややこしい共同統治時代の雰囲気が実に見事に描かれていること、圧巻と言うべき登場人物たちの描写、そして随所に挟まれるユーモア(これはカフカという人物によるところが多い)など、あたかも大好きなイギリス・ミステリを彷彿とさせるものがあって、並大抵の筆力ではない。
そこで著者の近影を拝見したところ、何とも温和なお顔立ちで、拍子抜けした(失礼!)。おまけにずいぶん若く、ここまで熟練した物語が書けるとは、ますます吃驚。
それだけではない。切なさを感じさせるベルリンの描写は、このミステリの重要な要素である。いや、それ以上にこの物語には不幸な歴史、悲しみがたっぷりと含まれている。ナチス、それを率いたヒトラーの狂気が醸し出すもの、その犠牲となったユダヤ人たちの悲惨、戦後に乗り込んできたアメリカ、もちろんソ連の共産主義がもたらしたものなど、つらい世界が嫌というほど現出している。
しかし読み終わってみると、「さらばベルリン」ではなく、なつかしきベルリンなのだ。救いに満ちた物語になっているのだ。細部が生き生きとしているがゆえに心にしみる。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。
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