連載 昭和天皇とダブルファンタジー
再び“発声する天皇”へ
アレクサンドル・ソクーロフ監督の『太陽』(2005年)でイッセー尾形が演じた昭和天皇は、いつも口の中で声にならない言葉を呟いている。史実をさほど重視しないこの映画で、ソクーロフが映像にしたかったことのひとつは、尾形の形態模写のような呟きだったのかもしれない。そこには発話される言葉の他に、声にならないもうひとつの言葉が伏在していることが見てとれる。恐らく天皇の仕事とは、それら2通りの言葉を内奥で聞き分けながら、ぎごちない沈黙や型通りの片言を外界へ繰り出すことなのだ。

アレクサンドル・ソクーロフ監督『太陽』(YouTubeの予告編より)。イッセー尾形が昭和天皇を演じた
ところが尾形が演じる天皇では、その制御装置が何らかの不具合に陥っているらしく、言葉同士がぶつかり合って発するノイズを外へ漏出してしまう。そのノイズは痛ましく、またどこか滑稽でもある。『太陽』という映画は、粗雑な歴史考証や物語構成にもかかわらず、未然の発語者として天皇を捉えたことで成功している、と私は思う。
“発声する天皇”のことは先に述べた(「論座」「昭和天皇の巡幸が巻き起こした熱狂」「昭和天皇がヒドロゾアと粘菌にのめりこんだ理由」など)。国民の前にほとんど姿を現すことのなかった明治天皇と異なり、大正天皇は人々の前に生身をさらすことを求められた。この人は日常生活では言葉数の多いことで知られていたが、それらは多くの場合饒舌として受け取られた。これと逆に昭和天皇は、(周囲の期待にこたえて)はっきりしたメッセージを理路も整えて語ることができたのである。それは万世一系、神にして人であるという天皇の二面性を表出するデモンストレーションの効果を高めた。
ところが“発声する天皇”としてリーダーシップを発揮し、田中義一内閣を総辞職に追い込んだその次の瞬間、このリーダーは声を出すことを禁じられた。以来天皇は“黙して語らぬ天皇”へ後退する。16年後の1945年8月9日まで、彼の言葉が求められることはなかった。その再びの発声は「聖断」と呼ばれたポツダム宣言の受諾である。