井上威朗(いのうえ・たけお) 編集者
1971年生まれ。講談社で漫画雑誌、Web雑誌、選書、ノンフィクション書籍などの編集を経て、現在は科学書を担当。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
――さて、近鉄球団を消滅させた平成も終わりましたが、今回それを総括した本を出された斎藤さんにとって、平成とは改めてどんな時代でしたか。
斎藤 フラット化、アメリカ化が進行し、それが完成した時代、と言えるでしょうね。
――日本のプロ野球も、強い資本力を持つ球団が牽引しなければ、ということで1リーグ化しそうになりましたしね。でも大元のアメリカは多くの球団を持っているんだからひどい話です。
斎藤 そう。自分のところは既得権を残しておいて、他は理屈で塗りつぶす、そういう流れが日本にもできあがってしまった。
――自分の生活が維持できればそれでよし。強者の尻馬に乗り、弱者の声など顧みない。そんな風潮の片棒を担いでしまった我々も反省すべきです。
斎藤 でも、広島というチームはローカリズムを徹底しているおかげで、まだその風潮に同調していない。だから俺も注目してしまうんだろうね。
――広島のマツダスタジアムはあんなに大入りなのに、いまだに自由席を廃止しない。地元の人たちがいつでも安い値段で気軽に来れるようにしている、というわけです。仲間内で誰かヒマな人が早くから並んで席取りをすれば、座って観戦できるんですよね。正直、広島に席取りしてくれる友達もおらず、東京から遠征して観るしかない身としては、わりとイライラするのですが。
斎藤 だけど、高い値段の指定席を増やせば簡単に儲かるのにそうしない。そういう心意気はいいよね。昔、巨人も自由席があって、子供料金が100円だった。だから行って応援してた、というのもあったから。
――だけど拝金主義が徹底した平成を通じて、各球場から自由席はどんどん消えていってしまいました。
斎藤 そういう風潮を批判した本を書いたわけだけど、だからといって俺自身は左翼だとはまったく思っていない。要は右でも左でも、「人が操られていること」がいやなんだ。そして本来あるべき自由を謳歌しない、させてくれない人がいやなんだよ。
――自由席で席取りをして、人生を楽しんでいいのに、どうしてお仕着せの指定席で管理されたがるのか、と。
斎藤 もちろん操られる自由だってある。そのほうが楽だから。でも、いまは上の立場に権力や家柄を持つ人が居座り、堂々と「操られているほうがいいでしょ」と言い放つようになった。
――自分だけコネでVIP席に座り、「お前らはそれ以外の席にカネ次第で座らせてやる」って公言するようなものだから、恥知らずな話ですよね。
斎藤 そういうこと。権力を持っている人が他人を支配するのに喜びを感じて、それを隠そうともしない。これは恥ずかしいことだと思うんだよね。
――斎藤さんは、別に君が代の斉唱や日の丸の掲揚を批判しているわけではなく、その強制を批判しているわけですよね。
斎藤 うん。たとえば日の丸も、もちろん血塗られた歴史を持つ旗だけど、国なんてものはそういうものなんだから。だからそれはそれで、反省も込みならば国旗になっても仕方がない。逆に、いまそれを変えてしまうと、変えてしまった人の権力を象徴する旗になる。それは最悪のことだと思う。そういう意味では旗や歌に意味をあまり持たせない。強制しない。それでいいんだと思うんだよね。
――私はいつも外野席で周囲と同じ応援歌を歌って立ったり座ったりしているわけで、半分くらいは強制というか、操られる快楽を味わってしまっているのですが……。
斎藤 好きで選択してそこに行ってやってるんだから、問題ないんじゃない? 最初の話に戻るけど、今日みたいに雨に打たれながら、なかなか試合を終わらせてくれないクローザーに胃を痛めるのも、人間とはそういうのを楽しめるからいいんだ、って俺は思うよ。
――愚行権というやつですね。
斎藤 うん。それで自由を謳歌できているんだから。強制する側の人が悪い、というだけの話だよ。車椅子の生徒まで、国歌・国旗の前に起立させようとする。そうすると校長は出世できる。頭が良くて勉強ができるから校長になれたはずなのに、どうしてそんなことをしようと考えるのか。そういったことを掘り下げてまた書いていくので、ぜひ読んでみてくださいよ。
──もちろんです。でも斎藤さん、ここは著者としても自由を謳歌すべく、野球についても書いていただいていいのではないですか?
斎藤 実は書きたい話がいろいろとあるんだよ。くわしくは……もう一軒行こうか!
――行きましょう! いい野球酒場があるので、そこで延長戦とまいりましょう。