事故で世を去った玉川福太郎を思う(下)
2020年05月23日
13年前に亡くなった、私の師匠・玉川福太郎の、5月23日は祥月命日です。
公演がない、いまできることはなにか、と一生懸命前向きなことを考えようと思うのだけれど、ふっと思い出のなかに引きずり込まれて、物思いにふけってしまう時間が増えてしまいました。
師匠の亡くなったときのことを、ちゃんと書いていなかったので、この際、書いておこうと思った、前回に続いての、後編です。
眠り続ける師匠。
信じられない。そんな。だめですよ、師匠。
この頭の中にあった、あんなに数多くの演題が、もう、この頭の中では死んでしまっているというの?
異様にノドがかわく。腰が痛い。たぶん熱が出ている。「血が逆流する思い」という言葉があるが、本当に血は逆流するんじゃないだろうか。
姉弟子の福助姉さんと、妹弟子のぶん福に電話をした。師匠の状況を話した。
二人とも絶句していた。
弟弟子の太福に電話。
――落ち着いて聞いてね。
「はい」
――師匠ね。あと数時間か、もって数日って言われたの。
「……えっ!」
――私は病院にいます。来るか来ないかはあなた自身が判断しなさい。
2カ月半前に入ったばかりの弟弟子。「来い」と呼びつけるべきかどうか、彼と師匠の距離感が私にはわからない。ただ新潟からなら、日本海沿いに電車でそうかからず来られるはずだ。来るだろうな、と思った。
知らせるべき人を一生懸命考える。
会いたい人は会ってもらったほうがいい。
夕方のニュースで重体と流れたらしく、師匠のお友達が駆けつけてきた。みんなに会ってもらう。外傷がなかったことが救い。
師匠の手。師匠の足。うなっていた師匠の口。
ウソでしょう。
おとうさんに頼りすぎた。私のせいだ、いい人だった、やさしい人だった……みね子師匠が、誰に言うともなくつぶやく。農作業なんかさせなきゃよかった。おとうさんにハンディがあるのに、私はそのことを考えてあげなかった。
師匠は小児結核が原因で、手にちょっと障害があった。右肘(ひじ)に人工関節を入れていた。その2年前に大病をしたが、その肘が膿んで、人工関節をとってしまっていた。
……怖かったんだよね、田植え機運転するの。無理をさせちゃったんだよね。
9時過ぎ。太福が駆けつけた。ほどなく東京から、師匠の息子たち、兄弟、親戚、そして豊子師匠が駆けつけた。それからものの30分。すうっと師匠の命は消えた。
各方面へ連絡。協会。新聞。
最後に会ったのは、5月9日だった。赤坂の某クラブで浪曲。みね子師匠のご都合が悪くて、私が弾かせてもらった。「中村仲蔵」と「天保水滸伝 鹿島の棒祭り」の二席。私はそのとき、「鹿島の棒祭り」を師匠にお許しいただき、覚えている最中だった。
「玉川の子なんだから、『天保水滸伝』一席くらいはできないとな」
だから「棒祭り」を弾けるのは嬉しかった。
曲師というのは特権的な存在だ。師匠の浪曲を特等席で浴びるように聞ける。入門して12年。相変わらず三味線はあんまりうまくなくて、なのに、こんな三味線に、そのとき師匠はいっぱいギャラをくれた。ご贔屓(ひいき)さんの車で、駅まで送ってもらって、下りる間際に師匠は、ひとこと「ありがとうな」と言ってくれた。
それが、最後の言葉。
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