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若者たちは世界へ向かった

 1970年代、日本の若者たちは突如海外旅行へ出かけるようになった。1972年の海外出国者は初めて年間100万人を突破し、そのうち3.5人に一人が20代の若者だった。女性に限れば、渡航者の半数近い約45%が20代で占められていた。

 その原因はどういうものだったのか? なぜ彼や彼女は海を渡ろうと思ったのか?

 実はこちらにはその実感がない。当時私も10代の後半から20代へ差し掛かる「若者」だったのに、ついにそのような衝動に突き動かされなかったからだ。実感がない以上、まずは書かれたものを手がかりに考えてみるしかない。

 背景には第一に、ボーイング747型機、いわゆるジャンボジェットの就航がある。急増した座席数によって需要が増え、価格が下がった。これで若年層が航空機による海外旅行に手が届くようになった。第二は、1971年のニクソン・ショックによる変動相場制への移行。1ドル360円の固定相場制が崩れ、円高ドル安の進行でツアー料金のさらなる低下が進んだ。第三は、1978年の成田国際空港の開港による国際線就航路線の大幅な拡大である。

大阪万国博期間中の外国人客の道案内に選ばれた、青山学院大英文科在学中の女子学生たち=1970年3月
拡大大阪万博の期間中、外国人客に道案内をする女子学生たち=1970年3月
 そして以上の経済的背景に加えて、1970年の大阪万博で多くの日本人が、パビリオンを通して海外の文化を知り、外国人観光客に遭遇したことが挙げられる。半年間で延べ6400万余人の日本人が、大阪千里丘陵に出現した「外国」に触れた経験は決して小さくなかった。海外の異文化に興味や親しみを持った若者たちは、今度はそこへわが身を運んでみたいと思うようになったという……。

筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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