2021年03月03日
朝ドラ「おちょやん」が3月1日から後半に入った。4月と10月スタートで年2本、年度で進む「朝ドラ」のリズムが、新型コロナウイルスでずれた結果だ。前作「エール」の撮影が中断、結果「おちょやん」のスタートは2020年11月30日になった。スタート時点ではいつ終了かも発表されず、つくる方も大変だろうなあと思っていた。
スタートから2カ月以上が過ぎた21年2月10日、5月14日が本編最終回、17日から次回作「おかえりモネ」が始まると発表された。そこから計算すると2月最終週までが前半、3月1日からが後半となる。というわけで、前半を振り返ることにする。
結論を書くなら、一番熱心に見たのは第1週だった。見ながら、あれこれ考えた。それ以後は、「ふーん」だった。という話を書く。
第1週、ヒロイン・千代は9歳だった。「明治の末、大阪の南河内の貧しい家」と番組ホームページにある。千代の母は亡くなっていて、代わりに千代は家事一切、五つくらい下に見える弟の面倒、小さな養鶏場という家業、すべてをほぼ一人で引き受けていた。だから学校には行っていない。父はいるが、全く働かず、朝から「おー千代、酒や酒!」などと叫んでいる。
この週を通して考えていたのが、これは立派な「育児放棄」じゃないかということだった。千代(子役・毎田暖乃)は「親なら親らしいことさらせ」と言って、父(トータス松本)を蹴飛ばしていた。たくましい千代像という演出意図はわかったが、そんなことより「児童相談所に通報すべき」と思った。
菅義偉政権が誕生して2カ月半というタイミングだったことも、影響していたと思う。「自助、共助、公助」という言葉が何度も頭をよぎった。健気な千代の自助の姿、「ねえやん、おなか減ったー」と訴える弟のヨシヲを連れてお隣に行き、立派なお魚を食べさせてもらう共助の姿。でも姉弟の置かれた状況は立派な「父親による育児放棄」で、すでに公助の段階。そう思い、千代とヨシヲを保護してあげて、と叫びたくなった。
だが、見ているのは今。幼児虐待事件が頻発しているという現実が、重くのしかかって、主題歌さえ悲しく聞こえてきた。「オレンジのクレヨンで描いた太陽に、涙色したブルーを足したらいつも通りの空になる」という歌なのだ。これは、涙が日常だという告発じゃないかー。
と、そんなふうに心乱れつつ「おちょやん」第2週を見ていた12月某日、芝居を見た。ニール・サイモン作の「23階の笑い」。演出・上演台本は三谷幸喜さん。ある大物コメディアンの事務所に集う、7人の放送作家の群像劇。「マッカーシズムの嵐が吹き荒れる」とパンフレットに描かれた、1950年代のアメリカのテレビ業界が描かれる。三谷流のコメディーだが、教養に欠ける日本人(私です)にはやや遠い世界。
7人が大物コメディアンを「大将」と呼ぶのって、まるで欽ちゃんだなー。かろうじて萩本欽一さんを頭に浮かべながら、見ていた。が、後半、松岡茉優さんが演じる唯一の女性放送作家が叫ぶシーンに、心が揺さぶられた。「女としてではなく、放送作家として認められたいの」。彼女はそう叫んだ。原作のままか、三谷さんの書き下ろした台詞なのかはわからない。でも、その一言で1950年代のアメリカが、「我がこと」に感じられた。
芝居の帰り道、「おちょやん」を思った。
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