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美術家・篠田桃紅が遺した忘れ難い言葉③~1956年〜60年代米国の思い出

ペティ・パーソンズ女史とギャラリーに出入りする人たちのこと

佐藤美和子 編集者

13歳でモダンアートに出会い、惹かれたベティ女史

 「ベティは私より12、3歳上。岡田謙三さんと同世代だった。非常に変わった、勝手な生き方をした女性ということで、私は興味がありました。なんとも面白い女性だなと。なぜ、夫のパーソンズ氏と別れたかというと、いい人で大金持ちだけど、仕事をしないから尊敬できないと言って別れた」

 ベティ女史がスカイラー・パーソンズ Jr.(1892〜1967年)と結婚したのは、アメリカの黄金時代と形容される1920年。新郎新婦の紹介と挙式の様子は、当時のニューヨーク・タイムズ紙が詳細に報道しています。

 両親が主催するガス灯の舞踏会で育ったパーソンズJr.は、ハーバード大学を卒業したニューヨークきっての社交家として知られていました。ベティ女史自身もニューヨークの名家の出身。桃紅さんの話によると、祖父の代まではアメリカ南部に住み、映画『風と共に去りぬ』に出てくるような400人の奴隷が働く大地主だったそうです。

 女史は13歳の時にモダン・アートに出会い、生涯携わっていきたいと強く惹かれます。一方のパーソンズJr.もアートや舞台の愛好家で、並ならぬ情熱を傾けていました。二人は挙式後まもなくヨーロッパへ航海し、3年後、パリで離婚します。

彫刻、絵画を経てギャラリーを所有

 彼女はそのままパリに残り、近代彫刻の父と称されるオーギュスト・ロダンの助手も務めた、ヨーロッパを代表する彫刻家アントワーヌ・ブールデル(1861-1929年)と、彫刻家・画家のオシップ・ザッキン(1890-1967年)に彫刻を学びます。しかし、彫刻は彼女の体力では厳しく、絵画に転向。当時の芸術家たちの活動の中心地、モンパルナス地区に住みますが、1930年代の世界大恐慌で全財産を失い、友人の援助でアメリカに帰国します。

 ニューヨークで水彩画の個展を開く一方で、ギャラリーの仕事を手伝うようになり、第2次世界大戦後の翌年に自身の名前を付けたギャラリーを持ちます。しかし、この頃のアメリカの女性はまだ生き方を選ぶ自由はなく、ましてや仕事を持つことは容易なことではありませんでした。

抽象表現主義の牽引者かつ指導者として

 「アーティストだったベティが画商になろうという気になって、画商を始めた。並大抵の苦労ではなかったでしょう。私が彼女をすごいなと思うのは、それでも最初にジャクソン・ポロック(1912〜56年)を扱ったことです」

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筆者

佐藤美和子

佐藤美和子(さとう・みわこ) 編集者

雑誌と書籍の編集者。時折、執筆もする。日本文化と伝統を愛する日本人だが、言動にガイジンが入っていると言われる帰国子女。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです